2009年12月31日木曜日

雨のタムコック in Ninh Binh

Hueから12時間ほど、Ha Noiの一歩手前の街Ninh Binhでバスを降りて、Tam Coc(タムコック)と呼ばれる景勝地を回った。この日は昨日から雨が降り続き、小降りなのだけれど、全体的に霧に包まれていて今まで旅をして回っていた中でも最悪のコンディションだった。
僕はたまたま同じバスに乗っていた中国在住の日本人旅行者と一緒に自転車を借りて回った。後で分かったことだが彼が学生時代に過ごした場所が僕の出身地と同じで、ローカルトークを弾ませてしまった。昨日に引き続き、ほんとにいろんな出会いがあるものだ。

タムコックの景色は、ハロン湾や中国の桂林に似ているような気がする。(2箇所とも写真でしか見たことないんだけれど。)ゆったりとした川の流れの中から奇岩渓谷の景色を眺めることができた。船を借りなくても景色は見られるのだけれど、船に乗ると鍾乳石の洞窟を潜り抜けることができる。潜り抜けた後は360度すべてを奇岩渓谷に囲まれ、不思議な世界に来たかのようだ。正直、天気がよくなかったので最高だったとは言えないものの、もし天気がよかったらかなりいい景色だっただろうと思う。今まであまり天気に悩まされることがなかっただけに非常に残念だ。

タムコックを見た後、古都ホアルーというNinh Binh近辺ではもう1つ有名なところに向かったのだが道に迷って見つからず。。結局泥だらけになって、荷物を置かせてもらった宿に戻ってきた。今年最後の観光がどろだらけになって自転車に乗りまわっているとは、自分らしいといえば自分らしいかも。

今年は特にいつもの年以上にいろいろな人にお世話になってしまった。来年もどうぞよろしくお願いいたします。


[移動] Hue - Ninh Binh
[交通手段] ツアーバス
[価格] 130,000VND
[サービス] エアコン
[時間] 18:00 - 6:00

[観光] Tam Coc
[交通手段] 手漕ぎボート
[入場料] 30,000VND
[ボート料金] 60,000VND/一隻(最大4人乗りくらいかな)
[時間] 約2時間
[サービス] おみやげの押し売り、チップの要求

2009年12月30日水曜日

ベトめしはやっぱうまいっす in Hue

この旅にして2度目のフエ。またフエに来たの?って言われてしまうかもしれないが、今回はバスの乗り継ぎのために少しいるだけで、お世話になったゲストハウスに挨拶に行って、Che Hemでチェーでも食べればいいかなと考えていた。

旅というのはけっこう面白いことが起きるものでいろいろな職業の人にであったりする。Hoi AnからHueへのバスで日本人の方と隣になった。仕事が写真家ということで、Hoi Anでもイギリスの写真家と一緒にご飯を食べたり、写真家によく会うなぁなどと思っていた。もう少し聞いてみるとベトナムに住んでいたことがあったり、ベトナムの料理に関してはかなり詳しいようだったので、オススメのおいしいレストランを尋ねてみた。すると、なんだか僕が行ったことがあるようなレストランがいくつか含まれていたりして妙だなぁと思っていたのだが、実は隣その人は本も書いていて、僕が旅のめし本として使用していた本の著者だったのだ!

僕はその本をけっこうちゃんと読んでいて、著者のプロフィールとかも知っていたので、そう言われてみれば話がしっくりくるなという感じだった。
結局、Hueでは福井さん家族と一緒に、うまいめしをごちそうになってしまい、思った以上に楽しい時間を過ごさせてもらった。



[移動] Hoi An - Hue
[交通手段] ツアーバス
[価格] 55,000VND
[サービス] エアコン
[時間] 7:30 - 12:30

2009年12月29日火曜日

灯篭流し in Hoi An

旅を少し急ぎ目に、Mui Ne(ムイネー)、Nha Trang(ニャチャン)と泊まずにバス泊で回ってきたが、ようやくHoi An(ホイアン)に到着して一泊することにした。

Hoi Anは日本で言えば京都のようなちょっと古めかしい歴史的な建物を多く残した町で、チャンパ王国時代の貿易都市だった。今ではかつてのように大きな貿易船が船着場にくることはなく、観光船がいくつか停泊している程度だ。思えばこの旅では、シンガポール、マラッカ、ペナン島など貿易で栄えた都市は今は観光として栄えている趣が強いように感じる。(シンガポールはそれほどでもないかな。)

町の規模は非常に小さく、観光の見所が小さなところに絞られていて、その外側は宿やレストランがあるといったように観光地さながらの町のつくりになっている。街の中もお寺や井戸など古めかしいものが多く残っているが、そのほとんどはみやげ屋だ。

ホイアンでは、月に一度、旧暦の14日にフルムーン・フェスティバルがあり、川に灯篭を流す習慣があり、この日は町全体の明かりを消してランタンを灯す。灯篭はチェンマイのロイカトゥーン以来で結構楽しみだ。

僕は運良く、ちょうどフルムーン・フェスティバルの日にホイアンについて、宿が混みあっていた。夜になると町にはランタンが並び、民俗音楽を演奏する人がいたり、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。一弦琴の演奏者は見たのだけれど、トゥルンの演奏者には出会えなかった。ひさしぶりにトゥルンの演奏が聞けると思ったのだが少し残念だ。なごやかな雰囲気の中、そこで出会ったイギリス人とフランス人とビールを飲みながらゆっくり1に日をすごした。

それにしてもこのフルムーン・フェスティバル、全然満月じゃないんだけどなー。


[移動] Nha Trang - Hoi An
[交通手段] ツアーバス(寝台バス)
[価格] 190,000VND
[サービス] エアコン、水
[時間] 19:30 - 6:00

[宿泊先] HOP YEN HOTEL
[住所] 103 Ba Trieu & 694 Hai Ba trung St - Hoi An - Vietnam
[料金] ドミトリー $5~7
[サービス] Wi-Fi、タオル、歯ブラシ、石鹸、ホットシャワー

2009年12月27日日曜日

赤い砂漠 in Mui Ne

カントーからホーチミンに戻り、すこし北に上ったムイネーというところがある。このあたりはビーチが広がり、風の強さからかサーフィンやカイトが盛んに行われている。スポーツとしてのカイトはやってみたら楽しそうなのだけれど、今回の目的はカイトでもサーフィンでもなく、砂漠だ。ムイネーのビーチの反対側には砂漠が広がり、赤い砂漠や白い砂漠などもこのあたりでは有名だ。時間がなかったので白い砂漠は見れなかったが、スイティエンという妖精の渓流と呼ばれている場所と赤い砂漠を堪能してきた。

スイティエンは赤い砂漠が広がる中に小川が流れていて、小川の水位が低いため裸足で小川を歩いて楽しむことができる。

砂漠の方はスイティエンから少し離れたところにあり、すこし広めの黄砂の砂漠がある。黄砂の砂漠なのだけれどレッド・デザートと呼ばれていた。ベトナムで出会った砂漠に感動し、すこし砂だらけになってしまった。

ムイネーでは一泊することなく、夜行バスで次の街に移動しようと考えていた。僕が夜行バスを予約した旅行会社はシン・カフェやハン・カフェ(ベトナムで有名な旅行会社)のような大きなところではなく、個人経営していたのだけれども、バックパックをオフィスで預かってくれたのはもちろんのこと、シャワーも貸してくれたし、出発が1:30amということもあって寝るスペースまで用意してくれた。さすがにゴハンも一緒に誘われたのは断ったのだけれどもとても親切にしてもらって、ほんとに助かった。ぼったくり対応に疲れているときにこのような対応をしてくれる人に出会うとほんとに救われる気がする。アメとムチの使い方がベトナムはうまいのか?と思わせられるようだ。


[移動] Ho Chi Min City - Mui Ne
[交通手段] ツアーバス
[価格] 90,000VND
[サービス] エアコン、水
[時間] 7:30 - 13:00

2009年12月26日土曜日

フローティング・マーケット in Can Tho

ホーチミンから5時間ほどかけて南のカントーと呼ばれる場所に来た。この辺り一帯はメコンデルタと呼ばれ、肥沃な土地柄から農業活動が盛んだ。それと同時にカントーはこのメコンデルタ一帯の経済の中心地でもある。
カントーの中心地から少し離れたところでフローティング・マーケットが行われているというのでそちらを見学してきた。フローティング・マーケットは今までいくつかの場所で見てきたが、このメコンデルタでのフローティング・マーケットがその名の通り想像していたフローティング・マーケットだった。

カントーからはカイラン・マーケットとフォンディエン・マーケットの2つの有名なフローティング・マーケットがあるのだが、フォンディエン・マーケットに行くためには早朝5:00にカントーの街を出発しなければならなかった。前日に予約をして、5:00に船着場に行ってみると、昨日紹介されたおばちゃんが待ち構えていた。しかし、昨日紹介されたおばちゃん(A)は本当のドライバーではなく、別のおばちゃん(B)がドライバーとして割り当てられた。どちらのおばちゃん(A,B)も英語がほとんど話せないので別に変わりはないのだけれど昨日紹介されて挨拶したのは何だったのだろうか。

話は少し戻って、フローティング・マーケットへ行くための船を前日に予約したのだが、場所や人によりぜんぜん価格が違う。泊まっていた宿では、ツアーを行うという別のおばちゃん(C)からオファーを受けた。おばちゃん(C)はなかなか英語が堪能で、挨拶程度であれば日本語も知っている人で、気さくに話しかけてくれるしいい人だった。しかし、ツアーの価格の最初の言い値は一人当たり$15ということでかなり高く思われた。旅の経験上、こういった最初のオファーは外で確認しない限り、絶対受けないことにしているが、「普段は2人で$40をディスカウントして$30にした。私は最初から適正価格を提示する。」みたいなことを言っていた。それが本当かどうかは他のところに行って価格を比べてみればすぐわかることなので、とりあえず世間話もそこそこにしてツアーの参加は保留ということで外に探しに行った。
船乗り場まで行ってみると確かに$40でのオファーはあったが、高すぎるので断った。少し歩いて回って最終的に決めたところはボート一隻で270,000VNDだった。ドル換算するとボート一隻で$14。2人いるので1人あたり$7ということになり、最初のオファーの半額以下だ。そうなってくると$7でさえ高いのではないかと思えてしまうがいくつか回ってこの価格が最安だったので結局そこを選んだ。

ベトナムを回っているとまず他の東南アジアの国と違うことは、外国人料金をふっかけてきているのがあからさまだ。他でもあったのかもしれないが、ベトナムの料金のふっかけかたは大きく違って、どこに行っても実際の価格よりも高く言ってくる。同じお店でも人によって違ったり、日によって違うなんてこともある。つり銭をなかなか渡さない店があったり、最初に聞いた額と払うときの額が違うなんてこともよくある。東南アジアで出会った旅行者から、ベトナムは疲れるという話をよく聞いたが確かにこれでは疲れてしまう。街角の商店で買うよりも、ちゃんと値札が張られている高級スーパーの方が安かったりするし、いちいち値段を聞いてふっかけられた値段をディスカウントするのが面倒でスーパーで買うこともある。ほんとはスーパーのような大型で会社が経営するようなところよりは、小さな商店で買ったりするほうが旅の醍醐味があって楽しい感じがするのだが。。外国人旅行者もいつまでもそれに付き合うかは分からないし、ふっかけに気づいた人たちがスーパーに向かうようになったら、ふっかけてきていた人たちは自分たちの首を絞めることになるだろう。

だいぶフローティング・マーケットの話とはそれてしまった。
フローティング・マーケットの実際は、ドライバーのおばちゃんの買い物に付き合わされているような感じだったが、それはそれで楽しかった。こういうときはむしろ英語が通じる人よりも通じない人の方がおもしろいんだと実感させられた一日だった。


[移動] Ho Chi Min City - Can Tho
[交通手段] パブリック・バス
[価格] 50,000VND
[サービス] エアコン、水
[時間] 9:30 - 14:00

2009年12月24日木曜日

メリー・クリスマス! in ホーチミンシティ

せっかく日本に一時帰国したのだけれど、ゆっくりする暇もなくまたベトナムに舞い戻ってきてしまった。日本発ホーチミン行きのベトナム航空で23日以降は空席がないとのことだったが、22日に乗ったときはかなりガラガラで僕の座った席の列は真ん中の4席分を1人で占領できたほどだ。この状態で23日から急に混みだすものなのだろうか。。

今年のクリスマスはベトナムのホーチミンでドイツの友達と過ごすことになった。海外でクリスマスを過ごすのは初めてだし、外国の友達と過ごすのも初めてだ。ホーチミンでは、あちこちにクリスマスのイルミネーションが飾られていて、飾りは日本よりも雑なのだけれどその多さから考えたら日本よりも盛り上がっているかのように見える。教会までライトアップされていたが、クリスマスマーケットなどで有名なドイツ人の友達の話では、ドイツではそのようなことはありえないとのことだ。信心深いキリスト教徒からすると教会を飾り付ける言う行為は信仰からは程遠いのだろう。ただ、その友達もキリスト教に熱心なわけではなく、親はキリスト教徒だけど彼はそうでもないといった感じだ。無宗教化しているのは日本だけではないということだろう。キリスト教もそれぞれの国で違うし、そもそも仏教国のベトナム人が熱心にキリスト教を信仰しているわけでもなく、日本と同様にお祭り騒ぎが好きなんだろうなと感じる。街の飾りつけには雪だるまの人形が多く目につく。おそらく雪が降らない国なので、日本と比べて雪への憧れが強いんだろうな。

今日はこんなクリスマスイブにもかかわらず、戦争証跡博物館に行ってきた。戦争の悲惨な写真を見たり、当時の新聞記事を読んだりして、改めて勉強になることがたくさんあった。ベトナム戦争ではアメリカが負けてベトナムが勝ったということになっているが、ベトナムが受けた被害を考えたらとても勝ったなどとはいえないし、戦争に勝者なしというのをつくづく感じた。

夜は少しクリスマスらしく、ソイ・ガーというチキンを使った料理を食べて、ビールを飲んで明日の移動に備えた。久しぶりに日本に帰国してみんなと会った後にまた日本を離れて少し寂しい気持ちになっていたが、ドイツ人の友達のおかげで明るい気分でクリスマスを過ごせた。
みなさんもよいクリスマスをお過ごしくださいまし。



[宿泊先] HOANG YEN GUEST HOUSE
[住所] No.14/8 Do Quang Dau St - Ho Chi Min City - Vietnam
[料金] ダブルルーム $6~7
[サービス] Wi-Fi、タオル、歯ブラシ、ホットシャワー

2009年12月19日土曜日

結婚式 in 池袋

ずいぶん前からこの日が妹の結婚式だと決まっていたが、航空券を買えるのか買えないのかとか、どこから買うのかとかで迷っていた僕はなかなか妹に出席の返事をできずにいた。しかし、なんとかベトナムで航空券をゲットして出席できるようになった。この日のためにベトナムのモクチョーという田舎の村からほぼ30時間ほどかけて日本に戻ってきた。

久しぶりに妹の姿を見たのだが、新婦はウェディングドレスを着てすっかりきれいになっていてなんだか兄としてどう声をかけたらいいのか、最初は戸惑ってしまった。自分の妹にきれいになったなんて言ってるよっていう突っ込みはご容赦ください。

結婚式、披露宴と順調に進んで、妹のお相手の新郎もしっかりしていたし、安心して楽しむことができた。新婦紹介のプロフィールでは地酒が好きで地酒を探す旅をしていたとか、僕が知らなかったところを知れたし、お色直しのエスコート役であにきと一緒に呼ばれたときはサプライズでうれしかったし、今までまったく知らなかった妹の同僚やお友達とも少し話すことができたし、なんと言ってもよかったのは新婦のスピーチで共感できるところがたくさんあって泣いてしまったことだ。それに、このところあまり具合がすぐれない父がとなりで一緒に結婚式に出席できたことも感動的だった。父には次に僕が日本に帰ってくるときも同じように笑顔で出迎えてほしいと思う。

旅の途中で会った友達は、この結婚式のことを話したら、みんな祝ってくれたし、兄としても新郎&新婦の2人が末永くお幸せに過ごしていくことを心から願っている。ベトナムから一時帰国して出席して本当によかった。ご結婚おめでとう!

[移動] Moc Chau - Ha Noi(My dinhバスターミナルと書いてあったが違う場所で降ろされた。)
[交通手段] バス
[価格] 80,000VND
[サービス] エアコン
[時間] 8:00 - 15:00

[移動] Ha Noi - Ho Chi Min City
[交通手段] 飛行機(ジェット・スター・パシフィック航空)
[価格] 1,070,000VND
[時間] 19:30 - 21:30

[移動] Ho Chi Min City - Narita
[交通手段] 飛行機(ベトナム航空)
[価格] 375USD(往復)
[時間] 00:05 - 05:30(日本時間07:30)

2009年12月18日金曜日

やっぱり落ち着く場所 日本

約3ヶ月ぶりに日本に戻ってきた。
成田は寒いっす。飛行機から降りた瞬間に息が白くなった。
ベトナムは南と北でかなり気候が違っていて、北のほうが寒いんだけれども、それでも昼間は半袖で暑いと感じるくらいだった。この寒さでコールドシャワーは耐えられないだろうなとか考えながら自宅に戻った。日本は成田を離れると日本人ばっかりだ。当たり前なんだけど日本人がたくさんいることに笑いそうになってしまった。通り過ぎる人々を見ながら日本に帰ってきたことを感じて楽しみながら実家に戻った。そしてやっぱり実家は落ち着く。お風呂につかる瞬間は最高だった。
さて、明日は妹の結婚式だ。いい結婚式になることを願う。

2009年12月15日火曜日

幸せのイチゴ in Moc Chau

東南アジアの旅の目的地だったハノイ近辺のイチゴを育てているところへようやくたどり着いた。ようやくと言ってはみたもののここまでの旅はあっという間だったような気がする。

イチゴを育成しているところは、ハノイから1時間半ほど離れたホアビンというところと、そこからさらに3時間半くらい離れたモクチョーというところだ。

現地で僕を出迎えてくれたイチゴのスペシャリストである大塚さんという方を含め、日本チームと現地の人々との協力のおかげでイチゴがすで育っていて、僕が行ったころにはちょうど実がなったものを確認することができた。

僕がモクチョーについたころはまだイチゴが取れ始めたばかりのころで、このイチゴをまずテスト的にモクチョーの街にあるケーキ屋さんに届けてイチゴのケーキを作ってもらおうということになった。大塚さんと僕は一通り現場を見た後に、いくつかイチゴを摘んでケーキ屋さんに向かった。

ベトナムでは一般的に英語がしゃべれる人が少ないので、イチゴを持っていってもケーキを作ってくれということが伝わるかどうか不安だったのだが、お店に行ってみると販売している女の子がかなり流暢に英語を喋ってくれた。生のイチゴを見るのは初めてだったようで非常に感激してくれた。近くで見て、匂いを嗅いで、とても喜んでいてくれた彼女は、みんなのお土産にするから食べることはできないと言っていたが、1つ試しに食べてみてくれと念を押すと食べてくれた。イチゴの味にも感動してくれた彼女は実はその日がちょうど誕生日だったらしい。いいプレゼントができ、微笑ましい場面に出会えてうれしかった。

実は1回目にイチゴを持っていったときに、いくつかは食べてもいいけど全部食べずにケーキ作ってねとお願いしたのだがすべて食べてしまったらしい。英語が通じていなかったのかどうかはわからないが、従業員がけっこう多いところだったので、1人だけ試食するということは無理だったのだろう。2回目は、今度こそケーキ作ってねと念を押した。

完成したケーキを見に行くと、僕らのために作ったので食べてくれといわれたが僕らはモクチョーの人たちにイチゴのおいしさを知ってほしかったのでケーキを受け取れなかった。きれいに飾られたあのケーキは誰が食べたのだろうかと思っていたところ、彼女の友達の結婚パーティーに持っていったらしい。彼女の友達も喜んで食べてくれたということを聞いてうれしかった。

イチゴでうれしい笑顔を見れたことはいいことだが、モクチョーやホアビンのイチゴ農家が生活を向上させていくためにはこれから販路を拡大していかなくてはいけない。ベトナムはクリスマスを盛大に祝うのでクリスマスケーキで使うということは1つの案だけれども、やはり日本のクオリティで生のイチゴをたべてほしいとも思うし、まだやるべきことはたくさんある。


2009年12月8日火曜日

ろうそくは慎重に、、 Hue

ベトナムのホーチミンシティから24時間のバスに乗り続けてようやくフエに到着した。24時間のバス移動は今まで最長だ!しかもバスに乗っているのはベトナム人ばかりで英語もほとんど通じず。。ちょっとつらい24時間だった。
まずは到着してからホテル探し。すこし古めだったが、周りのゲストハウスに比べて安くしてくれたし、サービスも十分(ホットシャワー、Wi-Fi、タオルあり)だったのでそこに泊まることにした。
夜、帰ってくるとゲストハウスの鍵が閉められていたので、外から叩いて従業員を起こして、すこし時間がかかったけれど鍵を開けてもらった。ゲストハウスの人が鍵を閉めるというのは安全上よくやってることなので大したことではない。ただ今回は、従業員が鍵を開けるまでにやけに時間がかかっていた。そしてろうそくを持って目をこすりながら鍵を開けにきたのだ。なにやら電気がないということを片言に説明してきた。街を見渡せば電気が点いているので街の停電ということではないのだがそのホテルが停電だった。なんでそこだけ停電になるんだか細かいことは当然話すことができず、渡されたろうそく2本を持って部屋まで案内してくれた。
せっかく、ホットシャワーがあって、インターネットにも無線で繋げるというから選んだのに(実際は最安だからだけど)、電気が点かないので、ホットシャワーなし、ネットもなし、充電もできないのできないことだらけだ。先にわかってれば対応できるし、そもそもそんなところは選ばなかっただろう。
いろいろ文句を言いたかったが従業員がほとんど英語が通じないので今日のところはこれまでにして、明日起きてから話し合おうと決めてねた。それにしてもコールドシャワーは冷たかった。

翌朝、起きてトイレに移行と思ってバスルームの扉を開けるとなんだか真っ黒になっていた!ん??なんだ?と思って入ってみるとすべて”すす”。昨日のろうそくの火がプラスチックに燃え移ってバスルームが全焼してしまっていた。ガラスは割れ、シャンプーやボディーソープもどろどろに溶けて、なんだか大変なことになってしまった。
昨日さんざん文句を言い放ってしまったがさすがにこれでは言いたいことを言える状態ではない。

バスルームの状況を従業員に伝え、なるべく早く問題を片付けてチェックアウトしようとしたが、やはり責任はどちらにあるのかとか弁償はいくらだとかの問題になってなかなかチェックアウトできなかった。しかもゲストハウス側は僕のパスポートを持っているわけで、簡単にそこから脱出するのは不可能だった。
とりあえずろうそくを使わせたのはゲストハウス側だし俺には責任がないという話にいったんはまとめたものの、結局はこちらの保険で支払うということで話をおさめることができた。
キャンドルにはくれぐれも気をつけて使用するようにしたい。



[宿泊先1] A dong Hotel
[住所] 01 Bis Chu Van An Str - Hue City - Vietnam
[料金] ダブルルーム $5(最初は$8と言われた)
[E-Mail] adongcoltd@dng.vnn.vn
[サービス] Wi-Fi、タオル、ホットシャワーということだったが停電して使えず。

[宿泊先2] Sunny FINE
[住所] 7/3 Chu Van An Str - Hue City - Vietnam
[料金] ダブルルーム $5
[E-Mail] sunnyfine@email.com
[サービス] Wi-Fi、タオル、ホットシャワー、ときどきゴハンをご馳走になる。

2009年12月1日火曜日

トゥール・スレン in Phnom penh

カンボジアのポルポト政権という名前は、どこかで聞いたことがあるという人も多いのではないかと思う。ポルポトの行った大量虐殺は世界的にも有名で、ポルポト氏を代表とするクメール・ルージュが政権を握っていたのは、ベトナム戦争終了後の1975年から79年までのわずか5年間であるが、その間に170万人(カンボジア人口の21%)が殺されたとされている。僕が生まれるほんの少し前までそのようなことが実際に起きていたのだ。

トゥール・スレンはもともとは学校だった。ポルポト氏の命令によって施設にフェンスを設け、S-21と呼ばれる刑務所に変更され、そこでは検閲、拷問、そして殺人が行われたとされる。

ここを訪れたときにはなんだか体が重くなって気分が悪くなってしまった。そこには写真や、実際そのS-21にいた人が描いた絵などがあるのだけれども、絵を見なくても雰囲気からなんかここにはいづらいものを感じた。いくつかの独房の床にはまだ血らしきものも残って見えていた。

このような虐殺は人間の歴史上なんどか行われてきているが、ポルポト氏が政権を取ったのは、虐殺を行うことが目的だったのではないと思う。彼が目指したのは「人間の改造」だったとされる。
腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方をもとに新たな人間社会を目指したのではないだろうか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。

そして、ポルポト時代に改造の対象とされたのは貧しい農民であり、知識階級は余計な知識を持ちすぎていたり、金持ちは自分の財力に執着を持っているという理由で多くの「ブルジョア」を殺していった。
ポルポト氏自身がフランスやソ連に留学し、共産主義を勉強し、政治に目覚めていったことを考えるとそういった「ブルジョア」を粛清したことは自己矛盾しているように見える。

トゥール・スレンは今は博物館として、過去の校舎をそのまま利用して建てられているがこういったものが忘れ去られないように過去の形のまま残されるということは重要なことだと思う。僕もこの地に立って過去に何があったのかを知ることができたし、なぜそのようなことが起きたのか今一度個人的に考えるきっかけを作ってくれた。



[移動] Siem Reap - Phnom penh
[交通手段] バス
[価格] $4
[サービス] エアコン
[時間] 8:00 - 14:00

2009年11月23日月曜日

1ドルの宿 Siem Reap

Aranyaprathet(アランヤプラテート)からタイ国境を越えてようやくカンボジアに入国した。
まず驚いたことは、カンボジア側の国境の街Poi Pet(ポイペト)からアンコールワットで知られる街Siem Reap(シェムリアップ)までの道のきれいさだ。

ラオスを周ってきたときはタイ国境を越えたところから道がガタガタになって、屋台などの数が激減したことが記憶に新しいが、Siem Reapへの道は舗装道路になっていて非常に快適だった。ラオスのように車がジャンプするようなことはほとんどない。そんな道を通って快適にSiem Reapに到着すると、まずやらなければいけないことは宿探し。

Siem Reapまでは乗り合いバス(ミニバン)でやってきたのだけれど、その乗り合いバスにカンボジア政府だか観光局だかの人が乗っていて、彼にゲストハウスを招待された。バスに乗っている人全員が彼の招待するゲストハウスに連れて行かれ、気に入らなければ他のところにいくというシステムだ。
彼のガイドするゲストハウスに着いたのだけれど安い部屋が空いておらず安い部屋を探しているんだと伝えると、tuktukを用意してくれて、安いところまで連れて行ってくれるという。到着したところは、ドミトリーでなんと$1だ!さすがに$1の宿というのは今まで見たことがない。

普通ドミトリーというのは部屋にベッドが並んでいるところなのだが、ここはバルコニーというか部屋の外にベッドマットと蚊帳が吊られていて、そこに寝ることになる。部屋の外のスペースを少し与えられている程度に考えてもらえばいい。誰かが廊下を歩けば地震のように揺れる。蚊帳の中で寝ているものの、部屋に泊まっている人からすればドミトリーは蚊帳の外だ。

しかし、驚くなかれ共同トイレは以外にもきれいで水シャワーしか出ないのは当たり前だが、他の$5や$6の宿と比べて遜色はない。さらにインターネットは無料で、Wi-Fiも使える。外のインターネットカフェが1時間$0.75で使えることを考えるとこのサービスは脅威だろう。ここにはしばらくゆっくりできそうだ。




アンコールワットの観光には通常1日$20かかるのだが、夕方5時半以降はタダになる。到着して初日、さっそくアンコールワットの夕焼けを見に行ってきた。

[宿泊先] Garden Village Guesthourse
[住所] #434, Steng Thmey village, Svaydangkum communce, Siem Reap province
[料金] ドミトリー $1, シングルルーム $3
[URL] http://www.gardenvillageguesthouse.com
[サービス] 無料インターネット、Wi-Fi、タオル、水シャワー

2009年11月22日日曜日

タイからカンボジアへ

タイとラオスの国境の街Nong Khaiから、タイとカンボジアの国境の街Aranyaprathet(アランヤプラテート)を越えて、Angkor Wat(アンコールワット)で知られる街Siem Reapに向かうことにした。
Nong Khai(ノンカーイ)から乗り換え地であるNakorn Ratchasima(ナコンラチャーシマー)までが6時間、そこで乗り換えてAranyaprathetまでは1時間半程度でいけるという話を聞いていた。一日でSiem Reapまでいけると考えて一番早い7時のバスで出発したのだが、午後3時にNakorn Ratchasimaから出発したバスは7時過ぎにタイ・カンボジア国境に到着した。これではSiem Reapまでは行けないし、カンボジア側の国境の街Poi Pet(ポイペト)は危険と聞いているので、Aranyaprathetで一泊することにした。

Aranyaprathetの街は国境から5kmくらい離れていてtuktukを使って街まで行かなければならず、国境付近で宿を探していた。たまたま宿を尋ねたレストランで英語をしゃべれる人がいて、なんだかんだでそのレストランに一泊させてもらえることになった。レストランといっても普通に家の前に食べるスペースがあるだけで行ってみれば屋台とほとんど変わらないところだ。レストランのオーナーは英語がしゃべれないのでタイから最後に出国する直前になって指差し会話帳が役に立った。


写真の撮り方を説明している最中に撮影されてしまいました。

一泊した後、国境に向かってカンボジアのVISAを取得した。話によればカンボジアのVISAは$20で取得できるという話だったのだけれど、タイ側で聞きまくっても1100B以下で取れるようなところは見つからなかった。今のレートは$1が32B程度なので、1100Bは$34程度でかなり割高になることになる。
LAOSのアライバル・ビザはタイ国境を越えてから取得していた外国人を見ていたので、タイから出国してからVISAを取得するのだろうと思ったが、タイの出国管理で並んでいると、アライバル・ビザはクローズされましたという張り紙があった。アライバル・ビザはあきらめて、タイ側で1100B+100B(日曜日のため)払ってVISAを取得してからボーダーを越えたところ、カンボジアに入ったところでVISA取得$20の文字が。。やっぱりね。
国境を越えてしまえばよかったんだろうけど、入出国に関しては政府が関わって国に入れなくなったりすると困るという先入観があり躊躇してしまった。

移動に関してもタイ側はかなり高い。Aranyaprathet側でSiem Reap行きのタクシーやバスも手配できるが、かなりぼったくられることになる。Poi Petに入ってから無料のシャトルバスでバス停(兼タクシー乗り場)へ行ってチケットを買うほうが安く済む。それにタクシーは早いがバスはいろいろ回るから遅いとタイ側では言われるが、Poi PetからSiem Reapまでの道はほぼ一本道だし、どこかに寄るような場所や人が乗ってくるようなところはない。タイ人がうそつきだというより、国境付近では知識のない人からボッタくろうとするひとがいくらでもいるということだろう。

また、Poi Pet側では政府のものだという人が無料シャトルバスでバス停まで連れて行ってくれるのだが、その際にRielは非常に使える通貨だからということを説明されて両替をするように促される。しかし、ドルを持っていれば両替をする必要はなく、Rielは細かいものを買った際のおつりとして受け取ることになる。こちらではRielは50セントや10セントコインのようなものなので両替はしないほうがいいだろう。



[移動] Nong Khai - Nakorn Ratchasima
[交通手段] 公共バス
[価格] 210B
[サービス] エアコン
[時間] 7:00 - 14:00

[移動] Nakorn Ratchasima - Aranyaprathet
[交通手段] 公共バス
[価格] 219B
[サービス] エアコン
[時間] 15:00 - 19:00

[移動] Poi Pet - Siem Reap
[交通手段] バス(ミニバン)
[価格] $9
[時間] 乗り合いバスなので人が集まったら出発。午後1時か2時くらいが目安だと思う。約2時間でSiem Reapに到着する。


2009年11月15日日曜日

UXOの街 Phonesavanh

Luang Prabangでしばらくゆっくりした後、5時間の山道のドライブを越えてジャール平原で知られる街Phonesavanh(ホーンサバーン)に到着した。ジャール平原にはたくさんの謎の壺が散在している。

ラオスでは、Luang Prabang(ルアンパバーン), Vang Vieng(バンビエン), Vientian(ビエンチャン)という3つの都市が観光都市として栄えていて、ヨーロッパからの旅行者でごった返しているが、この街はそれほど観光地として感じる場所は少ない。

このPhonesavanhに来て、恥ずかしながら初めて知った単語はUXOという言葉だ。UXOとはunexploded ordnanceの略で、いわゆる不発弾のこと。

Phonesavanhはラオス北部で不発弾が大量に残されている街で、ベトナム戦争終戦から30年以上たっても未だに不発弾の犠牲者は絶えない。街や村の家具には不発弾の殻が使われていたり、この街に住む人々が環境に適応して生きていることが伺える。宿で使用されている灰皿も小さな爆弾の殻を使用していた。しかし、そのように不発弾を生活の一部として利用することで子供たちの不発弾に対する恐怖が薄れやすくなるという問題も抱えているということだ。
訪れたジャール平原ではまだすべての不発弾が取り除かれておらず、安全地域と危険地域を示す赤と白の線が引かれている。白線の内側が安全地域という意味だ。

カンボジアやベトナムは地雷や不発弾で有名だと思っていたがラオスがこのような被害にあっていることは知らなかった。ラオスに落とされた爆弾の数は第二次世界大戦で日本やドイツが爆撃された数の合計値を上回るらしい。

不発弾や地雷除去についてはMAGという団体が除去作業を行っているので、興味がある人はホームページを訪れてみてほしい。
http://www.maginternational.org/


[宿泊先] Sabaidee Guesthourse Xiengkhouang Province
[住所] Phonesavanhミニバスステーションのすぐ裏
[料金] シングル・ダブルルーム 30,000Kから
[E-mail] sabaidee2000@hotmail.com
[サービス] タオル、石鹸、ホットシャワー

2009年11月5日木曜日

ラオス入国

しばらく居座っていたチェンマイ(Chiang Mai)のナット・ゲストハウス(NAT GH)を出て、ラオスに入国した。
タイの国境の町チェンコーン(Chiang Khong)からメコン川を挟んで向こう側に見えるのはもうラオスだ。島国の日本で育った僕としては川の向こうが違う国で、違う言語を話し、違う通貨を使っているなんてなんだか変な感じがする。

ラオス側の国境の町フアイサイ(Huai Xay)についただけでまず感じることは食べ物の豊富さの違いだ。タイではどこの街にいても食べ物であふれていて屋台やレストランがいくつも目に付いたが、ラオス側のHuai Xayでは屋台を見つけるのにも一苦労だ。そして、やっかいなことに情報を手に入れるのが大変で、バスの時間や値段を聞いて回ると誰に聞いても違う答えが返ってくる。明日のバスの出発時間は8時なのか、8時半なのか、9時なのか、価格は90,000Kなのか70,000Kなのか。。バス停に行って聞いてみるしかない。



[Chiang Mai - Chiang Khong]
VIPバス
B272
水とお菓子のサービスあり
8:00 - 14:30


[Chiang Khonからタイ国境]
約2kmを徒歩(Tuktukで20B程度)

[Chiang Khon - Huai Xay]
ロングテール・ボート
B40
毎5分間隔で出発

通貨情報
ラオスの通貨はKip(キップ)
$1=8450K
1円=90K
10,000Kが約100円程度と考えるとわかりやすい。
国境の両替所では日本円のレートが悪かった。
ラオスではドルやバーツも使えると聞いていたが、
実際レートが悪くなるのでキップを使用したほうが割がいい。

2009年11月2日月曜日

ロイカトーン祭り

パーイからチェンマイに戻ってきて、お祭りがあるということで参加してきた。お祭りでは灯篭流しのようなことをするのだけれど、こちらの灯篭流しは川には流さない。それぞれの参加者が小さな熱気球を買って、火を空に放つ。たまに失敗する人とかもいて、空に上がらなかったり、上がっても木につっかかったりしてしまうことがあって、うまくあがるとみんな一安心する。この小さな熱気球を飛ばすことで悪いことを追い払うという意味があるらしい。

それぞれの熱気球が風の流れに乗って同じ方向の軌道を描いてとても幻想的だ。街では灯篭流しだけはなく、みんなが花火や爆竹をして祭りを盛り上げる。時に爆竹は音が大きすぎたり、花火が人に向かって飛んできたり少し過激な部分もあるのだけれど、そういう部分を含めてタイの文化を感じることができ、いい時期にチェンマイにいることができた。




2009年10月28日水曜日

パーイ

NAT G.Hで出会ったドイツ人、カナダ人と一緒にチェンマイからさらに北に進みパーイへやってきた。チェンマイからパーイの道はかなり曲がりくねった坂道の連続だった。今までほとんど車酔いをしたことがなかったので今回も余裕で本を読んでいたのだけれど、途中からちょっと気分が悪くなった。所要時間は4時間程度で旅の中ではかなり短い移動なのだけれど、少しこたえた。

パーイの中心街はかなり小さくて、1,2時間程度かけて歩けば十分見切れる。中心街は欧米からの観光客がたくさんいて、土産屋やバーなどがたくさん見られ、ガイドブックにも書かれているように一昔前のカオサンロードのようだ。
滝、渓谷、温泉などといった見所は中心から少し離れているのでバイクもしくは自転車などをレンタルする必要がある。

僕らはバイクをレンタルして滝や温泉を回った。温泉はTha Pai HotspringとMuang Paeng Hotspringがあって、Tha Pai Hotspringは200B(約600円)もするということを聞いたので、無料のMuang Paeng Hotspringに向かった。(600円と言われるとたいしたことないんだけど、タイにいると200Bは2000円程度に感じてしまう。)
温泉につかることを想定してタオルや水着を持っていったのだけれど到着してみたら熱すぎてとても入浴できる温度ではなかった。それでも源泉を見ることができたし、その源泉ではとうもろこしの食べカス、卵の殻、鳥の頭など、おそらくそこで料理したのだろうと思われるものが垣間見れて楽しめた。ドイツ人が立ちションをしようとして、少し外れたところに行くと、「オー、マイガッ!」と聞こえたので、何かと思うとカエルが誤って温泉に飛び込んだのか、川の中でゆでられて死んでいた。煮魚のように目が白くなっていてまさしく"オー、マイガッ"が似合う状況だった。



チェンマイからパーイまで
ミニバン
1回の休憩あり
12:00 - 16:00
200B

宿泊先
Baan sangheaun light house
35/3 Moo 3 Chaisongkram Rd., Wingtai, Pai, Maehongson 58230
一泊 300B(ツインルーム)
ホットシャワー、タオルあり、コーヒーと紅茶が無料

2009年10月23日金曜日

カレン族の村

チェンマイではNAT Guest Houseに泊まっていて、そこで働いているカレン族のKonが彼の村に案内してくれるということで、僕も参加させてもらうことにした。参加する人はドイツ人、日本人、カナダ人、アメリカ人の総勢10人のけっこう大きなグループになった。
僕らはKonの家に泊めてもらった。村には電気はきているものの日本の生活とは大きくかけ離れている。田んぼが山の下にあってそこで米を作っていたり、村にはコーヒー豆の木や唐辛子なども育てている。豚や鶏などもいて、お祭りの際に豚を殺して食料にするらしい。
村を一回りして村人たちとセパタクローしたり子供と遊んで夕飯をご馳走になった。竹筒を使って料理した魚や野菜の煮物などの料理を作ってもらって、特に竹筒で煮た魚はおいしかった。
翌日はみんなで山に登ったり、滝を見に行ったりして楽しんだが、旅は楽しいだけではなくいろんな問題も続出した。まず朝起きるとKonのタイヤがパンクしていて、夜までに何とか直せたのだけれど、チェンマイに向かっている途中でパンクが続出。奇跡が起こっているのかというくらいにパンクのオンパレードだったけれど、ラッキーにも誰もケガせずにチェンマイに戻ってこれた。





宿泊先
NAT Guesthouse
7 Soi 6 Phrapokklao Rd. Phrasingh, Maung Chiang Mai Thailand 50200
一泊 100B(ドーミトリー, 3人部屋)
コールドシャワー、インターネット無料(WiFiではないが有線が使用可能)

2009年10月19日月曜日

ミャンマー雑感

ヤンゴンからミャンマーに戻ってきました。
シンガポール、マレーシア、タイと渡ってきて、まだたった4カ国目だけれど、ミャンマーは他の東南アジアの国とはまったく異質な国でした。

タン・シュエ将軍が政権を握っている軍事政権ということで多くの人がミャンマーは危険な国と考えているかもしれないけれど、旅行をしてみればその国の人々の良さに気付くと思います。ただ、詐欺師とかいるし、観光地では他の国と同じように料金をふっかけてくるし、人に対してではなくお金に興味がある人はたくさんいるのも事実です。そういうのを踏まえても、この国にはまた来たいと思わせる人の良さや出会いがありました。

ミャンマーは日本のように単一民族ではなく多民族国家です。もともとブルマ(ビルマ)と呼ばれていましたが、ブルマはミャンマー内の1つの民族の名称です。そのため、他の民族も含めてミャンマーと呼びます。ブルマ族は自分の国をミャンマーとは言わないし、ブルマー族以外のシャン族やモン族はシャン族、モンゾクであることを認識しているので、ミャンマー人だとは思っていません。
この国はもともとの首都ヤンゴンから今の新しい首都ネピードーに大金をかけて移転したり、補助金をとめてガソリン価格が倍になったりといろいろな問題を抱えているのは確かで、多くの市民は政府に不満を持っているようだけれど、それを公の場で言うことは許されていません。
来年、北部で大きな選挙が行われます。ミャンマー北部はシャン族の地方で、シャン族と政府との関係はあまり良くありません。今、バンコクに持ち込まれるヘロインの数が急増しているようです。ミャンマー政府が来年の先頭に備えてマシンガンなどを購入するための資金稼ぎのようで、政府とシャン族との国内紛争が起こる可能性は否定できません。
ミャンマー情勢には今後も注目していきたいと思います。

2009年10月8日木曜日

両替詐欺

ミャンマーの通貨が封鎖されていて、ドルが必要だということはこの間書いたばかりだが、通貨についてもう少し書きたいと思う。今まであまり大きな問題はなかったが、ミャンマーに着いてさっそくやられてしまった。

ミャンマーの通貨はチャットで、政府が公表しているレートでは1USドル=450チャットということになっているらしいが、実際は1USドル=1000~1100チャット程度で取引されている。ヤンゴンには両替所というところは存在しないが闇で交換できるところがあり、そこでUSドルと交換する。
ここでもう少し情報を足すとドル紙幣は大きいほうが価値が高い。100ドル札は1100チャットとかで取引されるのだが、50ドル札、20ドル札はレートが下がってしまう。10ドル、5ドル、1ドルと小さくなるほどその価値が相対的に減っていくのだ。それと両替を行うときには新札でないと受け付けられなかったりする。ホテルや交通費で払う才は古い札でも受け付けてもらえるようなのだが、両替のときや出国の際に払う10USドルなどは新札ではないとダメということだ。こんな貧乏な国で$100札なんて使う機会はないだろうと考えていたため、$50札や$20札を持っていたが$100札で持っておくべきだった。

僕は予算分をヤンゴンで両替し、足りなかったらバガンなどで両替を追加する予定だったが、地方に行くとレートが悪くなるということで予定よりも少し多めに両替し戻ってきたらまたドルに両替することにした。
実はこの情報はガイドブックにも載っているし、そういわれたのだが、実際のところそこまでレートが違うというわけではない。だからやっぱりちょっとずつ両替して行くほうがいいのではないかと思う。

両替すると札束がごっそりきて、これをまず数えなければならない。たくさんの札束を使うことには慣れていないので数えるだけでも一苦労だった。多くの時間を使って札束を数えたのはいいのだが、その後かばんに詰めるときに分けたほうがいいということで札束に触れられ、両替商に勝手にわけられてしまった。そして他の人が見ないようにということで2つに分けられた札束を早めにバッグに隠した。そのときは自分の目ですべて確認していたから大丈夫だと思ったのだが、その後バスに乗ってマンダレーのホテルについてようやく1人になって確認してからやられてしまったことに気付いた。札を数えなおしてみるとまったく足りないのだ。

両替の際に抜き取られるという話は聞いていたがまさか自分に起こるとは考えていなかった。シンガポールの宿で、ベトナムの両替商にやられたという学生に会った。そのため彼のベトナムに対する印象はよくないといっていたが、今は彼の言っていたことが身にしみてよく分かる。すごくやさしくしてくれて観光情報などいろいろ教えてくれたのだが今考えれば怪しいところが満載だった。受け取った金は絶対に触らせてはいけなかったし、バッグに入れてから、数えなおすべきだった。しかし枚数が多いのと、周りに見られてはいけないということからそういうことができなかった。
今後の教訓として受け止めなくてはいけないのは分かるが、ミャンマーでいきなり痛手をおってしまった。
両替商はインド系だったがインド系だけは避けたほうがよいということを後で知った。

2009年10月7日水曜日

ミャンマーへの道のり

タイの入国事情
ちょっと前にマレーシアのペナンにいたときのことだが、ペナンではタイの観光VISA取得サービスを行っている宿を多く見かけた。タイの入国事情は変化があって、今までは飛行機で入国しても陸から入国しても1ヶ月間はVISAなしで過ごすことができていたが、今年から陸路で入国した場合は15日しか滞在することができなくなってしまった。しかし、そのような厳しい取締りを行うと経済状況がよくないこの時期に観光業にさらにおいうちをかけてしまうため、今まで3000円くらいした観光VISAを無料で発行することにした。観光VISAを取得すると入国経路に関係なく2ヶ月間タイに滞在していることができる。そんなんだったら最初からVISAなしで2ヶ月滞在可能にしてくれと言いたいけれど。。ちなみにマレーシアのコタバルも国境に近い街だが、コタバルの宿ではVISA代行サービスは行っていなかった。おそらく個人でタイの大使館に行けば申請できると思う。

ミャンマー案の浮上
そのようなビザ事情があったことはペナンでわかってただが、VISAを申請しようと気付いたのが金曜の午後で、申請を行うために月曜まで待たねばならず、取得できるのはさらに遅れるのでVISAを待つのがきびしくなってしまった。それとほぼ同時に頭に浮かんだのがミャンマーだ。いろいろな人からミャンマーのいい話を聞くし、政治・経済・歴史の面からもミャンマーには興味を持っていた。そこでとりあえずタイに入国してVISAなし陸路入国の期限ギリギリでミャンマーに経ち、フライトで帰ってくれば1ヶ月の猶予がもらえるプランを思いついた。
(ミャンマーへの入国は基本的には空路を使わなければならない。)
航空チケットはマレーシアのAir Asia(格安航空会社)で取得し、後はバンコクでVISAを取得すれば準備が整うはずだった。

ミャンマーVISA申請
バンコクに到着しミャンマーの大使館に向かったところまではよかったのだが、自体は思っていたほど簡単には進まなかった。VISAの申請用紙に記入し、入国管理局の役人に呼ばれると仕事のチェックをされ、パスポートのチェックをされた。仕事についてどんな仕事なのか細かくチェックされ証明書まで要求されたが、就労証明書など持っていない。さらにシリアのVISAを取得していることを指摘され、ミャンマーの大使館も日本にあるのになぜ取得しなかったのかとしつこく聞かれた。細かく答えたがまったく相手にされず結局VISAの許可を与えてもらえなかった。。今日は10月5日。8日がフライトで7日までにVISAを取得する必要があり、VISAを作るのには2日の営業日が必要なのに。。。しかもAir Asiaの格安航空チケットはキャンセルができないということで格安になっているのでもしVISAが取れない場合はチケットは紙くずになってしまう。さらにタイに滞在できる限界がせまっているため、ミャンマーにいけない場合は一度どこかに出国しなければならない。こりゃ旅の計画が大きく狂ってしまう。VISAを取得できることを前提に計画を立てた自分が悪いといえば悪いのだがどうにかならないものか。。

ミャンマーVISA再申請
翌日、家族の協力を得てなんとか仕事の証明になるような書類をFAXで取り寄せ、不安ながらも再度大使館へ向かった。なんと今度はけっこうあっさり申請を通してもらえた。おいおい、昨日のいざこざはいったいなんだったんだよ、まったく。。しかし、まだ営業日の問題が残っていた。VISA取得には通常2日の営業日が必要なのだが、エアチケットを見せて急いでいることを伝えるとエクストラチャージを払って当日VISAを発行してくれるという。(ネットでそういう情報もあったが、昨日あれだけきびしかったので無理かと思った。)昨日取得できればエクストラチャージ払う必要もなく取得できたのになぁ、とも思いながらエアチケットを紙くずにせずにすんだので一安心。VISAは問題なく取得できた。

通貨の準備
ミャンマーの事情は少し特殊で、通貨が封鎖されている。そしてミャンマーで使用できるのは基本的にはUSドルのみらしい。USドルから現地通貨チャットに両替し、またいろいろな場所ではUSドルでないと受け付けないところもあるらしい。個人的にUSドルについてはかなり悲観的な見方をしているのであまりUSドルを持ちたくないのだが、ミャンマーでは日本円が使えないのでバンコクで準備する必要があった。
USドルの準備なんて簡単にできるだろうと思っていたが、実はそれがけっこう大変だったのだ。街中にあるMoney Exchangerに聞いてみても日本円からタイバーツへの両替はできるものの、USドルはもっていないという。当然銀行にも向かったが銀行でもUSドルは持っていませんとのこと。何件もまわってようやくたどりついたのが、X One EXCHANGEという場所。ここでは多くの通貨を扱っていてしかもレートが他の両替所よりも抜群によかった。今後もしバンコクに行く予定の人がいたら是非ともこのX One EXCHANGEを使って両替をすることをオススメする。サラディーン駅近くのPATHONGと呼ばれる場所から近いところにある。

X ONE Currency Exchanage Center
149/7 Surawongse Road Suriyawongse, Bangrak Bangkok 10500

2009年10月3日土曜日

水深30mの世界

昨日からアドバンスド・オープン・ウォーターのライセンス取得コースを始めた。今日の一本目は水深30mまで潜るディープ・ダイビングだ。通常のオープン・ウォーターでは18mまで潜れるのだけれど、アドバンスドに進むと30mまで潜ることが可能になり、これがアドバンスドと通常のオープン・ウォーターとの一番の違いと言える。

水深30mの世界では、色の見え方が水面と大きく異なる。赤い色が失われていき、水面ではカラフルなものも彩度が失せていくので、目に見えて変化していく景色からその深さを感じることができる。青暗い海は自分が深いところにまでやってきたんだということを教えてくれる。
コースでは赤色が失われることを実感するためにインストラクターのTKさんがウサギの耳のぬいぐるみをもってきてくれた。赤いところは黒っぽく、ピンクの箇所は赤っぽく変化する。海がどうして青くみえるのかということとも関係してくるので興味がある人は光の屈折や波長などを調べてみてほしい。

ディープ・ダイビングの楽しみは、オープン・ウォーターのときに比べて水面までの距離が今までに比べてほぼ倍に伸び、暗い環境に自分がいるとなんだかそれだけでワクワクしていしまうところにある。もちろんディープダイビングは深く行くこと自体が目的ではなく何かの目的のために深く潜るのだけれど。。
海底から少し浮上して見れば360度どこにでも行くことが可能だし、水面まで十分な距離があるので、自由な空間をなんだか飛んでいるような感覚を感じることができる。子供の頃にドラゴンボールの武空術にあこがれたことがあったが、この年になってそれを楽しんでいる感じだ。

今回のダイブでは魚の群れに囲まれたときがあって、それが何とも圧巻だった。魚の群れはそれ自体のダイナミズムがダイバーを魅了してくる。その群れの中にほんの少しいる違った種類の魚たちを含めてそこから自然が実感でき、見とれてしまう。ダイビングをやってよかったなと思える瞬間だった。


ディープ・ダイビングの後、2本潜って合計5本のダイブが終了し、アドバンスド・オープン・ウォーターのライセンスを取得することができた。
さらにその後、ナイト・ダイビングに挑戦するつもりでいたのだけれど、直前でコンディションが悪くなってしまい今回はあきらることになってしまった。この後、しばらくはダイビングができなさそうだが、ナイト・ダイビングは次の目標にしておこう。

次はバンコクに行き、ミャンマー行きの準備を進める。

2009年10月1日木曜日

タオ島

クラビーからは長旅だったけれど、タオ島に到着した。タオ島はダイビングのメッカと呼ばれているところで多くのダイバーがここでライセンスを取得する。ここでアドバンスドのライセンスを取得しようと思う。
マレーシアにいたときに、タイではめちゃめちゃ安くライセンスが取れるといっていた人に出会ったが、ここの価格を聞いてみるとそんなに差はないようだった。むしろマレーシアのほうが少し安かったかな。
タオ島はどちらかというとバックパッカーよりもツアー客のほうがたくさんいて、旅をしている間にいいうわさをたくさん聞いていたけれども、一人身のバックパッカーにはちょといづらい。

タオ島は日本人の間でもよく知られていて、プルフンティアン島と違って日本語の表示や日本のインストラクター、日本からの団体旅行客をよく見かける。小さなお店でであったレストラン経営者今はまだローシーズンだけれども日本の団体客のおかげでけっこう儲けているといっていた。


途中でGPSロガーの電池が切れてしまったことに気付かなくて、海路のほとんどをログできなかった。

2009年9月27日日曜日

ロッククライミング

ペナン島を出てタイに入国し、そのままクラビーに到着した。レオナルド・ディカプリオ主演のザ・ビーチで有名になったピピ島がクラビーからほど近くにある。映画の冒頭の撮影はクラビー・シティで行われたらしい。
僕はペナン島で出会ったアメリカ人ロッククライマーと共にクラビーにやってきて、Rai Layビーチからすぐ近くにあるTon Saiに泊まることにした。Rai Layビーチは半島にあるのだけれども、陸側が石灰岩の山に囲まれ、陸路でたどり着くことができないため、ボートを使って行く必要がある。ここのボートは人数が集まってから出ないと出発しないのだが、夜遅くに着いた僕らは少し料金を上乗せしてなんとか到着することができた。
Ton SaiはRai Layビーチからもちょっとたどり着くのが難しく、ジャングルを越えていかなくては行けないようなところで、ちょっとした秘境だ。バックパックを担いで、ライトを照らしながらジャングルの山道を越えていくのは大変だったが、たどり着いたときの景色は絶景だった。写真でうまく残せないのが残念だ。


Ton Saiはロッククライマーのメッカとしても有名で、たくさんのロッククライマーがここに泊まっている。Rai Layビーチの方は高級リゾート地で一泊1万円はざらだけれども、Ton Saiはバックパッカーやロッククライマーなど向けで一泊300円~存在する。
ここの人たちはとても優しくて笑顔で話しかけてきてくれるし、タイを回ってきた旅行者からも絶賛されていた。この地はロッククライミングのメッカとのことなのでとりあえず挑戦してみたが、やはり初心者には厳しかった。なんどか挑戦したが登りきることができず、今度やるときはもっと簡単なところから挑戦したいと思う。


2009年9月25日金曜日

マレー人とインド料理

ペナン島にはおいしいインド料理があるということを聞いて、街中を詮索していると、昼間っから現地の人がならんでいるインド料理屋台を発見した。店について尋ねてみると一日中この賑わいらしい。
もう別のお店で昼食を食べてしまったので夜にこの店にトライしてみようと思う。



予定通り、その店を夜に訪れてみるとやはり行列は耐えないままだった。たまたま前に並んでいた2人のマレー人に話しかけるといろいろ教えてくれて注文を問題なくこなすことができた。インド料理のお店はいろいろなところで勝手が分からず困ることがよくあったから助かった。

彼らはすごくよくしてくれて、ご飯も一緒に食べた。マレーシアのことや日本のことを話しながらおいしいインド料理をいただいた。別れ際に会計を尋ねたら、彼らが自分の分まで払ってくれていた。いいとは言ったものの結局おごってもらってしまった。

写真で見るとやっぱりおいしそうには見えないんだけれど、おいしかったです。

2009年9月24日木曜日

ペナン島

コタバルから深夜のバスに乗ってペナン島に到着した。ペナン島はコタバルからマレー半島のちょうど反対側にあるところで、安くておいしい料理があることで旅行者にも知られている。この町はマラッカと同様に世界遺産に登録された町なので観光都市としても栄えていて、日本語で書かれた看板もちらほらと見かける。


今はペナンの一番栄えている都市ジョージタウンにあるOld Penang Guesthouseというところに泊まっていて、今のところ一番きれいなゲストハウスだ。Wi-Fiも無料で使えるし、シャワーもトイレもきれいなので特にやることがなくても長く留まってしまいそうだ。

ペナンのご飯はほんとにおいしくて、安い。僕が訪れるのはほとんど屋台なので、日本のレストランのようにきれいな写真は撮れないので、見た目がそれほどでもないのが残念だ。ペナンは華人が多いことでも有名だがインド料理もおいしいところがたくさんあるということなので明日あたりは回ってみたい。


ペナンの料理として有名なラクサとかではないけれども普通においしい。北京ダックは他の料理と比べて少しお高いです。

2009年9月22日火曜日

初ダイブ

昨日でOpen Waterのコースをすべて終わらせて、晴れてダイバーに仲間入りできた。この後さらにAdvanced Open Waterってのがあるんだけれど、そのコースはもう少し後で、どこか違う場所で取りたいと思う。そのほうが目的ができるし、コース取得しながらダイビングを楽しむことができる。
ただのOpen WaterとAdvanced Open Waterの大きな違いはもぐれる深さで、Open Waterは18m、Advancedは30mまで行くことができる。ダイビングの種類によってOpen Waterでは参加できないものがあり、Advancedを取っておいたほうが楽しみは広がりそうだ。

実際、今日の午前はOpen Waterの人は参加できず、Quiver(ダイブショップ)で話して時間を過ごした。
今回はトイレの話題になった。少々汚い表現があるかもしれない。
こちらの島では洋式のトイレが普通なのだけれど、まず紙はない。樽に水とちいさなおけが用意されていてそこで手を使って洗い流すようになっている。これはこちらでは普通。ほとんどの旅行者はトイレットペーパーを持ち歩いている。僕はポケットティッシュ。ヨーロッパ系の人はだいたいトイレットペーパーを1つ丸ごと持って歩いている。拭くことについてはトイレットペーパーやティッシュを使えば問題ないのだけれど、めんどくさいのは行為を行うときだ。便座がかなり汚れていて、とてもそこに座る気にはなれない。(座っている人もたくさんいるんだろうけど。)洋式便器の使い方がわからずに便座自体を踏んでやる人もいるという話も聞いた。できればそういう便座には座りたくない。。便座に座らずに用を足すのはけっこう力が必要だ。どうせ座らない便座だったらむしろ和式にしてもらったほうが変に力むこともなくて助かる。このまま毎日力んでトイレで用を足さなければならないとなると、どこかで痔になりそうで嫌だ。そのうちこのスタイルにも慣れるんだろうけど。
結論としてここは楽しいんだけど、自国(ヨーロッパやカナダや日本)で便座に安心して座れるっていいことだねってことになった。日本はすばらしい国です。

話は戻って、ライセンス取得後、初ダイビングに行った。今回訪れたスポットは魚がたくさんはいなかったのだけれど、海がめを見ることができたし満足だった。ただ、空気の消費時間が早くて一緒にもぐった人たちに迷惑をかけてしまった。陸に上がってから、空気を長く持たせるコツを教えてもらったんだけど、普通に息しているのとなるべく抑えてやっているのでは、同じ空気の量でも何十分も海にいられる時間が違うのね。まったく知りませんでした。コース取得中はあんまり潜水時間のことを気にしてなかったからな。次回はちょっと吸うのを3カウント、吐くのを9カウントで試んで楽しんでみようと思う。

プルフンティアン島では1mもしくはそれ以上のStingray, Barracuda, Sea turtleを見ることができたの。サメは残念ながら見れなかったけど、いい経験ができた。



2009年9月20日日曜日

HARI RAYA

イスラム圏にはラマダンと呼ばれる断食の文化がある。ラマダンはイスラム暦の9月のことを意味していて正確には断食のことを意味する言葉ではないが、ラマダンの月の間に断食をするので、ラマダン=断食として捕らえる人が多い。イスラム教徒は、ラマダンの間、日の出から日没まで食べ物を食べてはいけない。日の出から日没までという限定があるから夜になるとたくさん食べるし、断食って行っても全然食べられないわけではない。ただ仕事の間中腹が減って力が出なくなるって言っていた人はたくさんいた。ラマダンはイスラム系のマレー人にとっては重要だけれど、マレーシアに存在する多くの中国人には関係がない。(その人がイスラム教徒じゃなければ)
Hari Rayaはそのラマダン明けを祝うお祭りで、マレーシアではその間いろんなところがお祝いするため、多くのお店が休みになる。日本に例えると正月、GW、お盆みたいなもので、正直この時期にマレーシアに来ることはお勧めしない。どこも車で込み合うし、そもそも店がやっていない。今年のHari Rayaは9月20日なのだけれど、日本のおぼんみたいなものなので何日まで休みなのかというと店によってまちまちだ。

僕にとってはこういうときにスキューバのライセンスを取るのは正解だったと思う。とはいえ、Hari Rayaの影響はこの離れ島であるプルフンティアン島にまで及んでいる。島の多くのレストランが休みになってしまうので食べるところがなくなってしまうのだ。何より船便も来なくなってしまうので、レストランだけでなくショップのパンとかも売切れてしまう。Hari Rayaはラマダン明けで食べ物が食べられることを祝う日なのに、皮肉なことにその時期に僕ら旅行者には食べ物がない。さらにネズミのせいで食べ物を買い貯めておきたくても安心して部屋においておくことができないのだ。まさにサバイバル。
実際はほんとに全然食べられないわけでもないのだけれど、僕の滞在していたロングビーチではBuBuという高級レストランしかオープンしておらず、しかもほとんど予約でうまってしまっていたという状況だった。マレーシアの屋台でワンタンミーとかがRM3程度で食べられるのに対して、BuBuは大体RM30くらいするから他と比べるととんでもなく高い。(島の他のレストランは大体一皿RM10くらいかな。)しかも、それにサービス料とかで10%とか上乗せするためさらに高い。なんだけれど、料理は味も見た目も最高で、1度食べなれてしまうと他のレストランがちっぽけに見えてしまう。それに高級とはいえ日本円に換算すると1000円程度だ。


2009年9月18日金曜日

バッグの穴

朝起きて、歯磨きに行こうと自分のポータブルバッグを見てみたら、大きな穴が開いていた。慌ててバッグを開けて中を見てみると、クッキーがかなり食べられていた。疲れたときにちょっと食べたいと思って買っておいたのに。。どうやらネズミにやられてしまったらしい。。島に到着した初日からいきなりこういう歓迎ですか。食べ物を部屋で維持するのは並大抵なことではない。

昨日20cm程度のトカゲを見てデカッって思ったけど、実はそんなもんじゃないらしい。プルフンティアン島はオオトカゲが生息していることでけっこう知られているらしく、1m超えはざらにいて、2mにもなるオオトカゲがいるらしい。また、であった人の中には、部屋にヘビがいたという人も。それもちっちゃいもんじゃなくてかなりおおきなパイソン。毒はないらしいが天敵はネズミだけじゃなさそうだ。


バッグに空いてしまった穴は仕方ないので、気を取り直して今日からダイビングコースに挑んだ。初日は本を読んだり、DVDを見たり。このDVDの俳優の芝居がなんともいえない不器用さで、おいおいってつっこみたくなるところが満載のPADIのDVDだった。今日は1,2章だったけれど、これが5章まで続くかと思うとちょっとヘコみそう。ちょっと勉強した後は海に行ってシュノーケリングと軽くフリーダイビングをやった。体験ダイビングは少しやったことはあるのだけれど、フリーダイビングは初めてで、やってみたらけっこう楽しい。


ジャパニーズのピースサインはいろんな国の人に変わった習慣として知られていて、日本人と写真を撮るときにはこっちに合わせてピースしてくれます。なんでピースするのって聞かれるけど、そんなの知りません。

2009年9月17日木曜日

プルフンティアン島

マレーシアのどこかでダイビングのライセンスを取ろうと考えていたけれど、多くのマレーシア人がPulau Perhentian(プルフンティアン島)がお勧めだといっていたので、そこで取得することにした。Plau PerhentianはKota BharuかKuala Terrengganuからそんなに遠くないところにある島で、キャメロンハイランドからも直接バスが出ていた。
キャメロンハイランドからは午前中に出発して、島に到着したのはもう夜に近くなってしまった。
明日からPADIのOpen Waterライセンス取得のコースが始まる。


2009年9月14日月曜日

キャメロンハイランド

キャメロンハイランドに到着した。キャメロンハイランドは日本で言うと軽井沢みたいなところで、マレーシアの避暑地として知られている。実際泊まった夜は毛布がいるほど寒かったし、ついこの間まで蒸し暑かったのでまったく違うところに来てしまった感覚だ。



このあたりは農業が盛んで紅茶農園やイチゴの食べ放題などで週末には観光客でにぎわうところだ。ストロベリーフィールズの遠藤さんに紹介してもらったレストランを訪れ、今日はそのレストランがあるリングレットという小さな町に泊めさせてもらった。
リングレットの農場はまさにジャングルの中に農場が存在している。急斜面にトマトやナスなどの栽培をやっている人もいてこんなところで農場ができるのかと思ってしまうほどだ。僕の訪れたトマトを栽培しているところの技術はかなりすすんでいて、一つ一つポットを作ってそこに養分と水をスイッチひとつで入れられるようになっている。マレーシアの田舎にある農場なのにここまで技術が進んでいるのは興味深い。





2009年9月12日土曜日

シンガポールとパックス・ブリタニカ

現在は、先進国は欧米欧州や日本で、その他の国々が発展途上国という構図はほとんどの人が認めるものではないだろうか。その中でもアメリカという国は特に重要で、アメリカの政策が世界に一番大きな影響を与えていることに異論を唱える人は少ないといえる。(昨年のリーマンショックなどまさにその言い例だろう。)

歴史を振り返ると、現代のように欧州が世界の方向性を決めるというのはかなり最近の話だと考えている。現在の世界情勢が作られたそもそもの発端は2つの大きな革命で、それはイギリスで起こった産業革命とフランスの市民革命であったと考えている。
それまでの封建的な社会の考え方は、王族など権力のあるものが国を統治し、人々はそれに従うことで安心、お金、仕事を得ることができていた。しかし、その考え方では人々の忠誠心を維持するためには多くの富が必要で、戦争を行う場合は戦費や食料など権力者は多くのものを支払い、それを続けることが必要だった。与える富がなくなれば傭兵たちはそこから簡単に去っていった。
しかし、フランス革命以降に国民国家という思想が生まれ、市民が主権を持つという思想が生まれた。これにより国が発展していくことで自由を獲得できると考えた市民たちは、国のために戦争に出兵し、税金を納めた。それらはすべて結局は自分のためだと考えたからだ。そして、権力者たちはかつてのように施しを与える必要がなくなった。ナポレオンのフランスが非常に強かったのは国民国家の考えが根底にあったと言われており、雇われ用兵などよりも自分の国のために尽くして戦う国民民兵は強く、各国の権力者から手本とされ、ヨーロッパやその他各地に広がっていった。その後、現在にいたるまで国民国家がよいという考え方は続いている。(今後その思想は何かの革命で変わるかもしれない。)

そういった思想と、イギリスで発展した産業革命が生産性を向上させ、人々をより遠くに行くことを可能にし、思想・技術を世界中に広げ、イギリスはパックス・ブリタニカと呼ばれるイギリス帝国の繁栄時代を迎えることになる。世界全体を支配した国はイギリスが最初の国であると考えている。
その後、イギリスは拡大させた権力を維持するために世界各地に軍を派遣し、その浪費のためにその権力を維持することができなくなった。覇権はそのころに世界の工場として発展をしたアメリカへと移り変わった。

上記のような流れの流れの中でシンガポールはイギリスがパックス・ブリタニカと呼ばれるイギリスの繁栄時代を築くための重要な拠点だった。同時にシンガポールの発展もイギリスの繁栄(貿易)に支えられていた。

シンガポールの発展の鍵はイギリスが中国との貿易を行うためにそこを重要な拠点として位置づけたことがきっかけになっている。シンガポールの創設者と言われているラッフルズは、中国との貿易の拠点としてマレー半島に注目していた。当時のマレー半島の南側はオランダの勢力によってほぼ独占されていて、オランダが全権力を握っていた。イギリスが中国との貿易を行うためには航海でインドやスリランカを越えた後、中国の拠点にたどり着くまでの間に拠点とできるような場所はすでにオランダに統治されていて、当時のイギリスはスマトラ島の南側を通って中国と貿易を行っていた。(かなり遠回り)

そのような状況の中、ラッフルズはオランダの統治を受けていない島を見つけ、そこをイギリスの拠点にしようと動いた。その島が現在のシンガポールだ(かつてはシンガプーラ)。ラッフルズは先住民との交渉やまたオランダとのやりとりで見事に成功し、シンガポールをイギリスの統治に治めた。シンガポールでは関税をかけない自由貿易が行われ、中国やインドを中心とする各国から商人たちが訪れた。またそこでは警官も配備され、海賊など貿易を荒らす行為は厳重に処罰され、それも商人たちの評判を上げ繁栄を築くことに一役かっていた。シンガポールの開港と同時にマラッカなど重要拠点もイギリスが治めるようになり、今後のパックス・ブリタニカへの時代を築いていくこととなった。

2009年9月11日金曜日

携帯電話ゲット!

海外に来て、携帯電話を調べ始めてからいろいろ聞いてからわかったことだが、携帯のシステムがその他の国と大きく違うのは日本と韓国だけらしい。今までは短期間でしか使うことがなかったのであまり考えようとはしていなかった。日本、韓国以外の国のGSM携帯はSIMカードを入れ替えるだけですぐにその国の携帯電話として使用できる。
日本の場合はSIMカードでキャリアが限定されているのでそのようなことはできない。例えばドコモの機種の携帯を買ったら、ドコモの回線しか使えない(ソフトバンクのSIMカードを入れて使うことができない)がマレーシアではそれぞれの機種と携帯のキャリア(ドコモとかソフトバンクのこと。こちらではOperatorと呼ばれている)は完全に独立していて、たとえばソニーエリクソンにAU向けモデルとか、ソフトバンク向けモデルとか存在しない。
ちなみにマレーシアのオペレーターは何種類かあって、僕が比較を行ったのは以下の3社だけ。
Digi

Maxis

Celcom

通話料金とかから考えてDigiがよさそうだったので、DigiのSIMカードを購入することにした。

僕が購入したNokia 5130はミュージック携帯でmp3の音楽も普通に聴くことができる。旅行に出発する前はソフトバンクの携帯で音楽を聴いていたのでこっちでも携帯で音楽が聴けるのはうれしい。





それにしても、日本の携帯がなぜこのような状況になっているのか、おそらくは一部の権力者の保守的な傾向にあると思う。海外のシステムはこうなっているということさえなかなか報道されないのが不思議なくらいだ。日本の携帯電話の進化は非常にすばらしいものなのだけれど。。

2009年9月9日水曜日

マレーシア入国

今朝、シンガポールから出てマレーシアに入国した。

シンガポールのブギスというとところにバス停があって、そこからマレーシアのジョホールバル、マラッカ、クアラルンプールなどに行くことができる。ジョホールバルはJB、クアラルンプールはKLなどと略して呼ばれている。マラッカは特に略されていないが、MalaccaともMelakaとも表示される。
直前に宿で仲良くなったフランス人、日本人と一緒にバス停まで行ったのだが、彼らの目的地はKLで、僕の目的地はマラッカ。8:30頃にバス停に着いたのだけれど、次のKL行きのバスは9:00出発。僕のほうはというと、マラッカ行きは13:30発まで待たなければならなかった。おいおい、荷物まとめて早く起きたのにそんなに待つのかよって感じだった。
仕方ないので、彼らを見送ってから先日肉まんを食べて仲良くなった中華系のお店で朝食を食べて、とりあえずJBまで向かうことにした。JBでマラッカ行きの便がどれだけあるのか知らないけれど、マレーシア内の移動だからシンガポールより便は多いはずだろうと考えていた。
サッカーをちょっと知っている人であれば、JBは日本ではジョホールバルの歓喜として知られている場所で、日本代表が初めてワールドカップ行きをつかんだ場所でもある。
最初はJBで時間をつぶしてからマラッカまでいこうと考えていたが、JBのバス停が市の中心から離れていることもあってあきらめてしまった。
マラッカについてからは宿泊先を決めてから、今までの情報整理をした。今日の移動をGPSロガーで追ってみたところ、けっこうきれいに出ていた。下の図はマレーシアのマレー半島側のさらに南の部分なのだけれど、シンガポールが非常に小さいことがわかってもらえると思う。シンガポールの大きさは東京の23区程度で、よくこの国がここまで発展したものだと感心してしまうほどだ。

2009年9月7日月曜日

旅のスタイル

今回はバックパッカーの生活がどういうものなのかを紹介したいと思う。ただし、これはシンガポールの僕が泊まっている宿でのことなのですべてのバックパッカーに共通というわけではない。

宿について
シンガポールで泊まっている宿は、バックパッカー・コージー・コーナー・ゲストハウス(Backpacker Cozy Corner Guest House)というところだ。
シンガポールの中心地から比較的近くて、料金も安いということでここを選択した。宿代はドミトリーで一泊S$12で、日本円を約S$1=70として計算すれば800円くらいだ。ドミトリーというのは広い部屋にベッドが並べられているところで、トイレとシャワーは当然共用だ。
この宿には、別にシングルルームやダブルルームなどがあって自分の部屋を利用することも可能だ。自分の部屋を利用してもトイレやシャワーは共同になっている。


ベッド、枕
ベッドカバーと枕カバーは宿に着いたときに洗われたものを渡され、それを使用するのでベッドや枕自体が汚くてもそれほど気にならない。僕はここには3泊しか泊まらないので、特に選択は気にしていないけれど長く泊まる人は途中で選択するんだろうな。

ロッカー
ここの宿では、1つのベッドに付き1つのロッカーが与えられていて、そこに自分の荷物をしまうことができる。ロッカーには鍵をかける場所はあるが、錠前は各自で用意する必要がある。1つのベッドで1つのロッカーと言われたが空いている間は空いているロッカーを自由に使えそうだ。

シャワー
シャワーヘッドは固定されていてるがお湯は出るし問題はない。ただ、足を拭く場所は用意されていないので濡れてもいいサンダルを履きながら体を洗うのが便利だ。

トイレ
東南アジアの安宿では当然のことかもしれないが、トイレには紙が用意されていない。バックパッカーはそれぞれ自分のトイレットペーパーを準備してトイレに行く。シンガポールでは外にいくらでもきれいなトイレがあるのでそこで済ませることができれば宿のトイレをわざわざ使う必要はない。

電源
部屋ごとに数箇所の電源(コンセントの口)が設けられていて、そこを使用することができる。僕の場合は変換器で日本のコンセント形状に変換してからデジカメの充電などを行うことになる。日本のコンセントの蛸足の口を忘れてしまったのがちょっと痛い。

洗濯
宿には洗濯機があるが使用不可とされている。洗濯を頼む場合はかなりのお金がかかるようで、みんな手で洗っている。

インターネット
宿には3つのパソコンが用意されていてインターネットが使用可能だ。ただし、多くの人が使用するので使用時間は限られている。2日目に1つのパソコンで日本語入力が可能なものを見つけた。USBメモリは管理者権限がないために使えなかった。宿の人に残りの2台を日本語環境にしたいとか、USBメモリを使うために一度管理者権限でログインしてほしいとか頼んだけれども、パスワードを知らないとか、嫌な顔をされて断られてしまった。それ以上言っても無駄だろうと思いあきらめた。

朝食
ここの宿には朝食もあるのだけれど、パンが並べてあって隣にあるトースターで焼いてジャムをつけて食べるようだ。そんな朝飯よりもちょっと外に出て近くの中華系のお店に行けばS$1以下で肉まんとか食べられるから、ここの朝食には手を出していない。

バックパッカーたち
とにかくいろいろな国の人たちがいる。宿で最初に出会ったスロバキア人、大学の単位を取得しに来ているノルウェー人、仕事を求めてきたインドネシア人、2年間の旅行をしているチリ人、5人くらいで旅行に来ているフランス人。仕事を兼ねて遊びに来ているイギリス人などなど。何人かの日本人にも会った。ある日本人は昔はこの安宿の向かい側にあるインターコンチネンタルに泊まっていたと言っていた。
宿で出会う人たちのいろいろな国のことについてあまりにも知らないことが多い自分が情けないと思うときがある。それぞれの首都、言語、主な宗教、有名な料理など彼らにとっての当たり前のことさえ知らないのは悲しいことだ。自分に置き換えると日本、東京、天ぷら、富士山などさえ知られていないと少し寂しい気持ちになるのではないだろうか。また、自分のことを説明するのはかなり難しい。英語が得意なわけではないからということもあるが、仕事や国の制度などを説明するのはなかなか難しい。というか突っ込んで聞かれるとわからないことがあって、自分がどれだけわかった気でいて、本当はわかっていないのかということを思い知らされることがある。
今思うことは日本地図とか家族の写真とかを用意してそれについて語れるようにしたいということだ。たとえ英語がうまくなくてもそういった図を利用すればお互いの理解を助けることができる。
よかったことは名刺を作ったことだ。自分から名刺を差し出すことで相手の情報も聞き取れるし、ストロベリーフィールズの名前を使わせてもらっているのでイチゴ好きの人の話を広めることも可能だ。

旅を始めてからの雑感
こっちについてからよくわかったことだけれど、シンガポールにはとにかく物がたくさんあるので日本で買わなければいけないものはむしろ少ない。僕はほとんどのものを用意して旅行に来てしまったがそんなことはしないほうがよかった。とはいえ、なかには日本から持ってこないと困るものもあることはある。
例えば少し触れたけれどコンセントの蛸足。日本のコンセントと海外のコンセントでは形状が違うために変換器で変換しなければならない。僕の持っているものはさまざまな国の形状に変換して使用できるのだけれど、日本の電源をさせるところが1つしかない。今まで海外には1つしかないところに日本のコンセントの蛸足をつけて複数を同時に使っていたが、それを持ってくるの忘れてしまったので1度に1つしか使えないから不便だ。
ガイドについては英語のものが現地で入るのでそれほど問題ではないけれど、日本語とその国の言葉とのやり取りをするための本は必要だろう。シンガポールはほとんど英語なので問題ないが、英語も通じないところでは、指差し会話帳などがあると便利だろう。いくつかの国のものは買ったけれど買っていないところもたくさんあるので、現地で手に入ることを望む。。かなり難しそうだけれど。

その他、Tシャツ、ズボンなどの衣類やシャンプー、ボディソープなどの生活品など雑貨などほとんどのものが日本よりも安く買うことができる。旅行では必要なものを手に入れるという目的でいろいろなところに回ることも楽しいし、それを含めた意味でも出発する際は現地で手に入らないもののみを準備して、あとは現地で買うつもりで来るべきだった。
そういうアドバイスをしてくれた人はいたけれど、こういうことは実際に経験してみないと細かいところまでわからなかったりするものだ。

また、英語の重要性は改めて感じる。今ならば僕は語学学校に通うよりもこういった旅に出るほうがずっと英語の勉強になると思う。特にシンガポールでは英語が公用語として使用されているからここで数ヶ月過ごすことは海外の語学学校に行ってそこで会った日本人と仲良くするよりはいいトレーニングになるのではないだろうか。


話は変わるが、9月7日はこんな感じで回った。
GPSロガーは日本からのフライトを記録していたはずなのに途中で電源が。。まぁフライトの記録はまた今度挑戦するとしよう。

2009年9月5日土曜日

旅の始まり シンガポール

最初に訪れる国シンガポールに到着しました。
シンガポールは想像していた以上に発展していて、City Hall近辺の景色は僕が住んでいた上野よりもだいぶ先進的です。
世界3大がっかりと言われているマーライオンを見に行きましたが、夜景だったこともあるのかけっこうよかったです。

シンガポールはイギリスとのつながりが深く、公共の建築物はイギリス風のものが多いです。
シンガポールのイギリスとの関わり、日本の占領など書きたいことはたくさんあるのですが今は控えておきます。

初日は空港を降りてから、話しかけられたトルコに向かう人と一緒にシンガポールをちょっと回りました。せっかく仲良く話していたんですが、彼はそのまま夜イスタンブールに飛んでしまうので明日は普通に一人旅になります。


少しきれいに取れた夜景の写真を載せてみました。左の下側で白く光ってるのはマーライオンです。

2009年9月3日木曜日

GPSロガー

GPSロガーは、GPSから緯度、経度、高度などを受信してそれを記録に残すというもの。普通に生活する人にとってはまったく必要のないものかもしれないけれど、それをgoogle Mapに連携させてどのように移動した軌跡を表示させることができる。この旅行で必要がなければいったいどこで使うんだろうっていう代物だ。(でも一般の使い方は写真と連動させてどこでいつ取った写真かを記録するのに使うようになってるようです。)
実は富士山に登る前から購入を考えていて、富士山でテストしようかと考えていた。ネット販売は届くまでに時間がかかると思って、いろいろなお店を回って探したがSONY製品しか取り扱っておらず、僕が購入しようと思っていたRGM-3800は店頭販売で見つけることができず、ギリギリにネットで購入することになった。大きさは僕の親指より少し長い程度で軽いし大して邪魔にならない。たいした機能があるわけではないのでちゃんと研究が進めばもっと小さくていいはずだとは思うけど。


届いたばかりのGPSロガーを早速茨城に行ったときにテストしてみた。操作はとても簡単で、電池(付属されていません)を入れて、電源ボタンを押して後は一緒に持って移動すればいいだけ。
結果は以下の通り、紫色の線で移動した軌跡がわかる。下妻市までちゃんと移動したってことですね!GPSロガーを購入するとCDでマニュアルが付いているんだけど、マニュアルはほとんど使い物にならず、なんとか自分で設定を行った。設定自体は簡単だったのでマニュアルがちゃんとしてればすぐにgoogle Mapに表示できるようになると思う。


GPSについて少し前に気になるニュースがあったので、それについて少し触れたいと思う。GPSはカーナビや船舶の航行用、米軍の精密誘導兵器などに使われる人工衛星を使った衛星測位システムで、30基の人工衛星を使用して運用されているが、使える人工衛星が24基以下になると十分な位置確認がとれなくなるとされている。
このGPSについて、米政府の会計検査院(GAO)が「来年以降、GPS用の人工衛星の中で軌道を外れるなど機能が低下するものが増える。このままでは、使える人工衛星が24基以下になる可能性は、来年が5%、2011-12年には20%、2017-19年には90%となる」とする報告書を今年の5月に発表している。
GPSに対抗しうるものとして、中国の航行誘導衛星「北斗(COMPASS-G2)」はちゃくちゃくと準備を進める中、アメリカは新たな人工衛星の打ち上げを延期し、今後もその目処が立っていない。しかも現在の財政状態から考えれば人工衛星に回すほどの予算は当分は見込めないだろう。GAOの報告書が予測どおりにならないとは言い切れない。

2009年9月2日水曜日

茨城訪問

出発間近で準備が忙しくなっているけど、今日は茨城のイチゴ農家に出発直前の挨拶とお手伝いに行ってきた。今日訪れた場所はストロベリーフィールズではなくて、その仲間の別の農家さんのところで、ストロベリーフィールズのみんなで手伝いに行くということで僕もそこに混ぜてもらった。
僕は実家から車で行ったので片道4時間弱かかってしまい、実作業はほとんどできなかったのだけれど、別の農家さんと話したり、栽培方法を見学することは非常に勉強になった。
ストロベリーフィールズではポットに1つ1つ苗刺しを行ってそれを栽培するのだけれど、今日手伝いに行った農家さんでは、畝を作って直接苗を植える。時間も短くてどっちにどのようなメリット、デメリットがあるのか知ることはできなかったけれど、その場所やどういうものが育てたいのかによって栽培方法も多種多様だってことだ。この辺りは旅行から帰ったらしっかり勉強したいと思う。

(この写真も僕はカメラマンなので写ってません。)

ストロベリーフィールズには社長も含めて東南アジア好きの人がいていろいろアドバイスをもらった。東南アジアの特に観光地では旅行者を狙った詐欺のようなものが多く、賭博詐欺とか飲み物に睡眠薬を入れたりだとかそこら辺のガイドブックによく載っている手口はほんとうにあるということだ。その中で今日最初に受けた注意が男を狙った女性の詐欺。海外に行って急にモテるようになんてならないんだから、女性が寄ってきたら気をつけなよってことを一番最初に言われた。僕はそういうのに引っかかりそうに見えているのだろうか?(笑)
旅で現地の人と仲良くなるってことも重要なんだけれど、簡単に信じ込んで詐欺に遭ってしまうのも避けたいところだ。この辺りは実際に旅行して慣れていくしかないのかな。


さて話は変って、そんなイチゴの栽培に関して、ミツバチは受粉の過程で大きく関係している。近年、ミツバチが減少していて、ニュースで取り上げられ問題になっている。原因はまったく不明なのだが、インドの研究で携帯電話と基地局が原因ではないかということが発表された。この研究から、携帯電話や基地局が増えていけば今後10年でミツバチが姿を消すかもしれないということだ。インドは経済発展と人口増加により今後も携帯電話や基地局が増えていくことは必至だろう。イチゴ農家にとってはミツバチは重要なので、この辺りのニュースは常にチェックしておきたいと思う。

ミツバチの減少、携帯電話と基地局の電磁波が原因か インド研究

2009年8月31日月曜日

業務終了

会社に入って研修が終わってから、一度も変更することなく一つのお客様先に勤めていたが、今日でその業務も終了となった。思ってみれば、数年前まではずっとここで仕事をすることになるんだろうなと考えていたのに、今は周りの先輩たちよりも早く去ることになって、なんだか不思議な感じだ。といっても全部自分で決めたことだけれども。。
去ることが決まって、外から会社や組織というものを考えると改めてそのすごさを感じる。会社組織としての運営や設備投資の決定などいろいろな判断によって会社は動いていて、それがちゃんと機能しているということは実はすごいことなんだろうなと考えたりしていた。

今日は業務終了ということで同じチームの先輩たちに池袋の幸ちゃん寿司でご馳走になった。ここはブラジルのプロジェクト打ち上げでも来た場所で、寿司のネタがすごい!このところ店がリニューアルしてちょっと前と変ってしまったが、ブラジル打ち上げのときはネタの大きさにびっくりした。ウニはてんこ盛りになっていてはみ出していたし、海老も大きくてシャリが隠れるほどでめちゃめちゃおいしかった。
今では店もすっかりきれいになって、ウニのてんこ盛りも昔ほどの威勢のよさはなくなってしまった。とはいえ、相変わらずお寿司はおいしかったです。

2009年8月29日土曜日

引越し

入社以来からずっと過ごしたこの部屋も今日で最後だ。お気に入りのプラズマテレビと世界地図ともいったんお別れして、荷物はすべて実家に移動してから旅行に出発することにする。近所で仲良くなった友達やお気に入りのフレンチのお店、よく通っていたスーパーなど、4年少しの間にすっかり馴染んだ街から離れることは寂しい気持ちでいっぱいだ。


しかし、引越しはそんな気持ちに浸っている暇もないほど忙しかった。ちょっと前にダンボールが届いていたので荷物を入れ始めたけれども、直前になるまでなかなか入れることができないものが多くて、引越し前日から当日にかけてかなりの勢いで荷造りをしなければならなかった。
当日は引越し業者が予定よりも少し早めに到着することになって荷造りを手伝ってくれたけれど、最後のほうはとりあえずさっさとダンボールにつめるって感じでどこに何が入ってるのやらわからなくなってしまった。

引越し業者に荷物を運んでいってもらった後は部屋の清掃。
いくつか清掃道具を残したつもりだったけれど、掃除を始めてみるといろいろなものが足りなくて、普段どんなにものに恵まれた生活を送っていたかを実感した。結果的に友達に手伝ってもらって、部屋はほぼ最初に借りたときの状態とほとんど変わらないほどきれいになった。

続けて当日中に引渡しまで済ませた。
部屋のクリーニングについてはほぼ完璧な自信を持っていたのだが、どうやら引渡しの基本料ってのに5万近くも取られるらしい。引越する人たちは全員支払うとの説明だった。なんだか納得いかない。せっかくめちゃめちゃがんばってクリニーングしたのにその基本料ってのはいわゆるクリーニング代金だ。先に言ってくれりゃそこまでがんばって掃除しなかったし、それより普通にクリーニングをお願いしたらそんなに取られるのか?

身近に不動産関係の知り合いもいるし、もう少しちゃんと事前に調べておくべきだったのかな。このあたりについては自分の知識があんまりないので、業者の思うツボにはまってしまったのかもしれない。まっ、こういうことも勉強と思って前向き考えるしかないかな。

2009年8月26日水曜日

レーシック 術後1ヶ月

富士山に登ってから視力が大きく低下していて精神的にショックが大きかった。下山した後は頭痛が治ったものの視力がほとんど回復しないので心配していたが、1日、2日経つと視力はだんだんと戻ってきた。
ちょうどレーシックの術後1ヵ月検診があったのでそこでちゃんと見てもらうことにした。視力は測ってみたら、右1.5 左2.0で、術後直後よりむしろあがってるんじゃない?ってほどまで回復していた。とりあえず一安心。

担当医に視力低下について尋ねたところ、ドライアイが主な原因らしい。通常、涙は角膜をゴミや細菌から洗い流して守ってくれるが、ドライアイでゴミや細菌が入り込んで角膜を傷つけてしまい、それが視力低下を招くとのことだ。

富士山に登ったときは風が強く、埃も飛んでいたので、目が乾いていただけではなくかなりゴミが入ったはずだ。下山中も何度か目薬を点したが、埃にまみれた黒い液が目から垂れてくるくらいだった。やはり富士山に登るときは保護メガネかサングラスのようなものをしたほうがよさそうだ。

2009年8月25日火曜日

ベトナム VISA

日本にいる間に大使館を訪れて取っておいたほうがいいVISAはシリアとベトナムだけだったので、ベトナムのVISAが取得できればVISAの準備は整うことになる。
(カンボジアとオーストラリアにはe-VISAというものがあるので、そちらで申請予定)

今回の旅行では東南アジア地方のメインはベトナムだと考えている。ホーチミン(サイゴン)から北上してハノイまで行くのはすごく楽しみだし、なんと言ってもイチゴ作りをできるところだ。

ベトナム大使館に訪れてみるとそれはかなり立派な建物だった。
ただ、ここのインターホンを押してしまったのだけれど、VISAの申請を受け付けてくれるところはここではなく、ここから右の道を行ったところにあった。


さっそく申し込み用紙に記入をして提出すると、日程について尋ねられた。まだ8月なのに11月頃にベトナムに入国する申請をしたからだろう。説明を聞いてみると、どうやら1ヶ月有効なVISAは申請時に何日から何日までかを決めなければいけないとのことだ。入国した日から1ヶ月間と考えていたが、それがまったくの誤算だった。
シリアのときは6ヶ月間有効のVISAだったので適当に日付を決めることができたが、ベトナムの観光VISAは1ヶ月のものしかない。VISAは最大限に使いたいので今ここで日程を決めることは得策ではなかった。しかもベトナムは15日までならVISAなしで滞在できる。ホーチミンから入って、一度ラオスとか国外に出国して、また入りなおせばそれだけで合計1ヶ月滞在できることになる。そういったことができるかどうかは行って見なければわからないが、ベトナムのVISAは現地でも申請できるし今回はあきらめた。

2009年8月23日日曜日

東京観光

ちょうど僕が富士山に行く直前にスイスの友達が日本に観光に来ていた。
彼らとは一緒に富士山に登る予定だったのだけれど、到着する日時がギリギリで、飛行機の疲れや時差ぼけを考慮して、富士山に連れて行くことはあきらめた。ただ、富士山から帰ってきた後にご飯だけを一緒に食べることにした。

今考えれば彼らが富士登山をキャンセルしたのは正解だったと思う。富士登山は楽しかったけど、時差ぼけ&睡眠不足で挑むものじゃないだろう。富士山をなめちゃいけない。

待ち合わせは分かりやすいだろうと思って東京駅を選んだ。細かく言うと、東京駅の丸の内中央口。
彼らと連絡を取る手段は、彼らが公衆電話を使って僕の携帯へかけるのみで、僕から彼らへの連絡手段はない。なんだか久しぶりに待ち合わせをすることの難しさを感じた。電話中に決めたことをあとで簡単にメールで修正とかできないし、遅刻した場合知らせることもできない。

本当に彼らがちゃんと来てくれているのか心配しながらもあっさり見つけることができた!
スイスで会って以来の4年ぶりの再開だ。彼は全然変わっていなくてすぐに打ち解けられた。

連れて行ったところは比内やという比内地鶏を使った鳥料理のお店。魚はけっこう食べたみたいだし、
日本食で何がいいか考えたらやきとりになった。それと、学生時代に汐留でバイトをしていた頃、この比内やの親子丼が大好きだったので紹介してみたかった。

料理の説明や日本人はだいたい最初はビールを頼むとか軽い説明をした後、さっそく東京の観光について尋ねてみた。期待していた答えとけっこう違っていて驚いた。どうやら日本は僕が考えている以上に観光がしにくい場所のようだ。

・地下鉄が複雑でよくわからない。
まずは地下鉄で苦労したようだ。これについては納得。
日本人でさえ東京の地下鉄は分かりにくいと感じている人は多いのではないだろうか。
尋ねた人に教えてもらった料金が間違っていたことや出る必要のない駅で降りて、また買いなおさなければならなかったなど不満はたくさんだ。
ただ、2日目には東京メトロの英語版カラーマップを手に入れて、わからなかったところはかなりクリアになったようだ。"東京の地下鉄のことならなんでも聞いてくれ"って言っていた。


・英語が通じない。
これは少しわかるような気がするけど、日本では想像以上に英語が通じないらしい。"お前以外に英語を話す日本人がいない"って言ってた。(笑)僕の英語はなんとか会話ができる程度だけど、それだけ英語を話せる人が見つからなかったということだろう。
電車で移動するときにJRでもメトロでも駅の職員に英語が通じなかったようだ。しかも、英語が話せると思って訪れた新宿の観光情報局はちょうど改装工事中で閉まっていたらしい。

・日本食の店で高いものを売ろうとする。
寿司屋でボッタくられそうになったということだ。
注文をした寿司よりも高い寿司を出されて、その料金を払わさそうになったらしい。
たぶん安めの1人前セットのようなものを頼んだのだろうけど、店側が高いものを出してその代金を要求してきたということだ。ここは日本だし、そんなことをすることはないと思っていたのだけれど、彼らが受けた印象は本当のことだし正直少しショックだった。日本にも外国人観光客料金とか存在するのだろうか?

日本では水やお茶もタダだということを教えるとびっくりしていた。ランチでどこかのイタリアンに行ったらしく、ピザ1枚にドリンクですごい高かったようだ。しかもその店では水の料金を取られたと言っていた。きっとかなりいいレストランに入ったんだろうな。
居酒屋のお通しのシステムも外国人には難しい。レシートを見てもなんだかわからないものが計上されているわけだしね。日本人の僕でさえ、あれは理解しがたい。(座席料と思うしかないかな。)

帰りは東京タワーに寄ってから帰ることにした。桜田通りから見る東京タワーが好きなのでそこを案内した。明日の朝、仕事前に少し築地を案内することに決めて、今日はお別れ


富士山 その2

頂上に着いたのはいいけれど、どうやら僕は高山病にかかってしまったらしい。症状は昔1度だけ味わったことがある二日酔いに少し似ていた。起きてても横になっても気持ちが悪くて、だからといって吐いてしまうほどでもないみたいな。。。
酸素ボトルは持ってきていたので、吸ってはみたもののあまり効果はなかった。やはり治療方法は下山することしかないみたいだ。

それと同時に視力の低下は精神的に痛い。せっかく手術したのに。。。術後1ヶ月近く経つはずだけれどレーシックでは激しい運動は1ヶ月後にしてくださいとのことだった。富士登山って激しい運動に含まれていたのだろうか?富士山は登り始めると10時間近く歩き続けることになる。しかも睡眠なし。カロリーはフルマラソンの2倍近く消費すると言われているし、少し考えてみれば明らかに激しい運動だ。そして気圧。やはり気圧が水晶体に影響を及ぼしているのでは?などと考えていた。
頂上では山小屋に入っても何も食べる気も飲む気もしなくて、とにかく早く下山して楽になりたい思いでいっぱいだった。

頂上で少し写真を取って、すぐに下山することにした。下りは曇り気味で、温度上がりすぎず快適な気温だった。ただ地面が乾燥していたので誇りがすごいし、風で砂利が目や口に入ってくる。行きはけっこういい準備ができたと思っていたけど、帰りのほうが準備が必要だったのかもしれない。
レーシックでもらった保護用メガネがあれば大活躍だっただろうな。持ってくるつもりだったサングラスもうっかり忘れてしまった。あとマスクなんかも必要だろう。誇りがすごいので口に砂利が入る。今度登るときは持っていこう。今度がいつになるかは知らないけど。
そしてもう1つ注意すべきことは写真。途中スキップしながら下山して遊びながら、かなり速いスピードで降りてきてしまったのでほとんど写真をとらずに下山してしまった。。もうちょい遊びながら下山を楽しめばよかったな。

5合目についた頃、再度また問題に直面することになる。
これはタクシーに乗ってきたときからわかっていたことだが、2合目に置いた車をどうするかということだ。残念ながら2合目で泊まってくれるシャトルバスはない。
5合目でソフトクリームを食べながら休んでいたときに近くの人に声をかけてみた。現状を説明するとその人たちは、運転手を2合目まで連れて行ってくれることになった。車のキャパもあって、4人全員を2合目まで連れて行くことは不可能だけれど、運転手が1人でも2合目に着けば、後は5合目まで迎えに来てもらえる。
しかし、この案もダメだった。また交通規制をしているらしく、運転手が2合目まで行けても、5合目まで迎えに来ることはできない。
結局、残された3人で運良く帰宅途中のガイドさんをヒッチハイクで捕まえて2合目まで戻ることができた。
今回の旅はラッキーなことの連続だった気がする。
ただひとつ、視力があまり回復しないことを除いては。。。

2009年8月22日土曜日

富士山 その1

世界旅行に行くなら富士山くらい行っとかなきゃダメじゃね?っていう友達の一言で、急遽富士山に行くことになった。

中学時代は決して富士山に登ろうなんて言い出しそうもなかった3人とタイ系埼玉県民を乗せていざ出発!順調に富士山有料道路付近まで来るとピッタッと車が流れなくなった。どうやらここから渋滞らしい。なんとか有料道路の入り口まで着くと、係員からの説明。「5合目の駐車場が満杯です。渋滞は3時間くらいかかるかもしれないですが駐車場にある車が出ない限り入れないので止められるかわかりません。駐車場が使えなくても料金は払い戻せません。考えるなら端によって考えてください。」
とっさの説明でよく考えなかったけど、ここまで来て引き返すなんてありえないっしょ!マイカー規制も終わったはずだし前進あるのみ!って感じで突き進む。
http://fujisen.web.infoseek.co.jp/

途中からはほんとに渋滞がすごくてほとんど動かない状態になった。車から降りて星を眺めながら、東京の星空との違いとレーシックの有難さをしみじみ感じながら星を眺めていた。星を眺めていたときはいつか5合目には着くだろうと楽観的だったが、時間が経つにつれて渋滞の深刻さに気づく。車はほとんど動かないし、どこで規制してるのか出口が見えそうにない。まだ3合目にさえたどり着かない。バスやタクシーは駐車場を使わないということで規制の対象外のため僕らの車を追い抜いて行く。焦りは募る一方だ。このままでは日の出を車の中で迎えることになるんじゃないか?

そこで俺らは打って出た。5合目に客を降ろした帰り道のタクシーを拾って2合目の駐車場まで行ってもらい、そこに俺らの車をとめてそこからタクシーで5合目まで送ってもらうという案だ!マイカーで来て何でタクシーに?って思うかもしれないが、富士山に登れなければ意味がない。金で解決できるならそれ以上の方法はありえなかった。運良く「5合目まではスペシャリスト」のドライバー辺さんを捕まえて、願いを聞き入れてもらい、渋滞の車を横目に見ながら5合目まで快適に飛ばした。これほどまでにタクシーが気持ちよかったことはない。


いろいろあったけれど、この5合目からようやくスタート!


富士山の道のりは過酷だとは聞いていたけれど本当に過酷だった。
登れば登るほど温度は下がっていく。休憩を少しずつ取りながら上着を着増していく。休憩中は汗が冷えて寒くなるので上着が快適なんだけれど、少し歩くと汗をかいて暑く感じる。登山の格好ってのは以外に難しいものだ。その中でタイ系日本オタクは唯一Tシャツのみで耐え続けていた。どうやらタイの暑さに飽きたから寒いのが好きらしい。そうかもね。
そういう人はさておき普通の日本人であるその他3人は着実に上着を着増しながら頂上を目指す。途中大きなハプニングもなく8合目を順調に登っていくと、もう4時半過ぎ。時間もあまりないしここから焦ってもなんなので、富士山ホテルのを少し行ったあたりでご来光を拝むことにした。
なんと言ってもこのご来光を待つ時間がすっごい寒い!!風邪は強いし、動かないから余計に寒いし。となりのタイ人はそれでも半そでTシャツのまま。こりゃ俺には絶対に真似できませんな。
少しずつ空が明るくなってきて、ついにご来光!まわりからも歓声が上がる!太陽が見えると温度が上がって太陽の暖かさを実感した。テンションも上がる!ただ、ご来光で太陽が見えたのは数分の間ですぐに雲に覆われてしまった。そして、これは下山してから聞いた話だけれど、頂上でご来光を待っていた人たちは太陽を見ることができなかったらしい!今回の登山って実はめちゃめちゃついてるんじゃないの?って感じでした。


その後、引き続き頂上を目指す。このチームが目指しているのはご来光ではなくてあくまでも頂上だ!日本のてっぺんをめざすのだー!って最後は集団が歩いている道の横をロッククライミング張りに上がって頂上に到着。8合目の富士山ホテルからもまぁまぁの距離はあった気がする。
頂上に着いたのはいいものの、ここで自分の異変に気づく。頭が痛いというか気分が悪くて、しかも視力がめちゃめちゃ低下している。どうやら高山病にかかってしまったのかもしれない。最後のほうはちょっと焦り気味でペースあげて登ってたしな。山小屋のメニューさえまともに読めなくて、これではレーシック前に逆戻りだ。俺の視力は一体どうなってしまうのだろう。。


2009年8月21日金曜日

綿花を通して考える

あなたのTシャツはどこからきたのか?
原題:The Travels of a T-Shirt in the Global Economy



筆者ピエトラ・リボリがTシャツから経済や政策などを考察する経済書。もう数年前に出版されたので別に新しいものでもないが、この本の面白さは身近に存在するTシャツから綿農家や綿織物工場の経営、アメリカの農業保護政策とそれに反対する発展途上国の問題、過去の奴隷貿易などが解説されているところだ。
単なるモノ(コモディティ)として扱われている綿花を考えることによって、世界がどのように繋がっていて自分の生活にどう影響していくのかを考えることができる。

農業保護政策を行い綿農家を保護しているアメリカと公正な取引を要求して綿花イニシアチブを掲げるチャド、マリ、ブルキナファソ、ベナン(アフリカ西部、中部)。そこにはブラジルや中国なども絡んでくる。中国は大量の綿を生産しているにもかかわらず、最大の輸入国でもある。これらの国がどのような立場で対立をしているのかを調べるだけでもモノの流れを考察することができる。
残念ながら僕がこれから訪れようとしている国々は綿と関係が深いところは少ない。けれどもこの本のような考察をしながら旅行ができたら楽しいだろうなと思う。

ここからは僕なりの最近のニュースからの考察だが、近年バイオエタノールとして注目されるトウモロコシや砂糖きびの作付け面積が増加していることにより、アメリカでは綿花の栽培が減っている。にもかかわらず輸出は好調だ。バイオエタノールとして使われなかったとしても、綿花の需要は供給を上回ることができず、年々在庫を減らし続けている。今後もこの傾向が続き、アジアでTシャツやGパンの需要が増えれば綿花の不足を招くことになる。どこかの生産国で干ばつなんかが起きたりしないことを望んでいる。

2009年8月18日火曜日

予防接種 第3回

今日の黄熱病と狂犬病(2回目)の予防接種で準備のための予防接種は最後になる。

黄熱病の予防接種を実施しているのは東京検疫所などの各検疫所のみで、一般の医院やクリニックでは受け付けていない。逆に、東京検疫所ではA型肝炎、破傷風、狂犬病などの予防接種も行っているが、これらは黄熱病の予防接種を受けることが前提であり、A型肝炎の予防接種だけを受けるというようなことはできない。

東京検疫所は、お台場にある船の科学館より先に行った大江戸温泉近くの東京湾岸庁舎の8Fにある。お台場のフジテレビから大江戸温泉にかけてのこのあたりは開発地区って感じで、Miraikanなど近代的な建物ばかりだ。非常にきれいではあるのだけれど、どこか似方よっていって情緒がないような気がする。

まず湾岸庁舎に入ると、さっそく8Fの検疫所へと行きたいところだが、まずは収入印紙を購入する必要があった。東京検疫所での予防接種は収入印紙を購入して支払うのだけれど、収入印紙はこの東京湾岸庁舎の2Fの売店で売っているらしい。郵便局などでは10円単位では扱っていないところもあるらしく、無駄に収入印紙を探して歩き回るよりは湾岸庁舎に来てしまったほうが無難だ。っていうか、なんで現金払いじゃなくて収入印紙なのだろう?確か国際免許のときも収入印紙だった。そう思いつつも調べるほどの興味がなかったので調べていない。
収入印紙はお役所みたいに窓口に並ばされて買うのかと思っていたら、売っている場所はほんとにただの売店で、会社の中にあるコンビニみたいなふつーの売店だった。自分が受ける予防接種分の収入印紙を購入し、その後8Fの検疫所へと行く。
8Fに着くと、検疫所の前のスペースにはイスが並べてあって、50人くらいの人が座れるようになっていた。前方には狂犬病や蚊を媒体とする病気の張り紙が数枚張ってあって、いかにも検疫所らしい感じだ。

回りを見渡すと予防接種を受けに来ている人はさまざまだ。学生もビジネスマンもカップルで来ている人もいたし、自衛隊らしきひともいた。カップルの申請書をちょっとのぞくとケニアと書いていたのでサファリにでも行くのだろう。新婚旅行だろうか。学生は動物図鑑を見ながら盛り上がっていた。僕自身もいくつも書くと面倒なので、ケニア・タンザニアと書いておいた。
自衛隊らしき人たちの渡航先にはエチオピア・ジプチと書いてあった。ソマリア関連の仕事だろうか。ジプチは元フランスの植民地で、エチオピアの北東部にある小さな国だ。領国ともソマリアに国境を接している。エチオピアはキリスト教国で比較的安全かと思っていら大間違いで、海外安全ホームページによれば、場所によってはかなり危険な地域のようだ。

こんな感じで、海外安全ホームページなんかを見ていると疑問に浮かぶことがある。
中東地域が危険だということは多くの人が認識しているだろうけど、アフリカの危険地域のほうが危険度が高いということだ。あれほど報道で扱われることが多いイスラエルは退避勧告がでるほどではない。
逆にコンゴ民主共和国はツチ族とフツ族の争いはおさまってきたものの、まだ退避勧告は排除されないでいる。インド・パキスタンのカシミール地方についてもまだ危険だし、アフガニスタンも泥沼のままだ。アメリカはまたアフガニスタンで何をする気なんだろうか。

なんて考えていると自分の番。注射は並んだ順にグループ単位で呼ばれて実施される。注射を受けた後は30分程度安静にしてからイエローカードの説明を受け、イエローカードと領収証を受け取って解散。イエローカードってほんとにただの黄色いカードでした。


帰り際にたまたまお台場に来たということもあってガンダムプロジェクトに少しよってよってみた。ガンダムの写真取ったんだけど、パソコンで読み込んだらエラーに。。せっかくいろいろ取ったのにな。旅行本番じゃなくてよかった。

2009年8月17日月曜日

保険の見積もり

海外旅行にはトラブルは付き物なわけで保険には入っておくべきだろうね。たまたま友達からも保険のアドバイスをいただいたし、ちゃんと考えなければな。特に今回の場合は2,3日のパックツアーと違うので余計に注意が必要だ。(2,3日でも万が一に備えて入っていたほうがいいと思うけど)

ちょっと調べたところ、以下の2つのうちのどっちかかなぁというところ。っていうかこの2つくらいしか選択肢がない。。

観光で6ヶ月を超えるっていうのがなかなか見つけにくかった。しかも、いくつかのサイトでは選ぶときに地域を選択しなきゃいけなかったりするんだけど、アジアだけじゃないし、アフリカだけでもないし。
でもいったいどの地域が一番保険料が高いんだろ?ソマリアやコンゴ民主共和国はヤバそうだけどなー。
このあたりの国と比べると悪名高い南アフリカのヨハネスブルグなんて生易しく思えてきそうだ。(それでもヨハネスブルグには行きたくないけど。)



今回の旅行の場合は価格帯としては、6〜7万円くらいみたいです。
この出費続きの中で痛いといえば痛いけど、想定内といえば想定内。

せっかくの機会なので、保険の詳しい内訳についてちゃんと検討してみたいと思います。でも、保険ってなかなか理解しにくいんだよね。調べたところでケガや事故に遭遇することは運なわけだし。とはいえ、自分がちゃんと納得するプランかどうかってのが大事だよね。

2009年8月16日日曜日

お買い物

夏休みを利用して旅行に必要なものをいくつか買ってきた。

購入したもの
・バックパック
バックパックの旅行をするのにバックパックがなければ始まらない。
バックパックはちょくちょく見に行ったりしていたのだけれど、なかなか決めかねていて、ようやく購入した。
バックパックのメーカーは、Gregory, Millet, Karrimorなどいろいろなメーカーが揃っていて、どれもそれぞれの特徴があって、登山系のお店の店員さんに説明してもらうとかなりおもしろい。すごい久しぶりに買い物って楽しいなって実感した気がする。
結果的に僕はDeuter(ドイツ製)を選んだ。
大きさは55リットル+10。65リットルや70リットルも選べるのだけれど、そのサイズの荷物を長期間持ち続けることはきつそうなので55リットル程度で収まるものしか持たないようにしようという意味でもこのサイズを選んだ。
Gregoryもけっこうよかったのだけれど、いろんなところから開け閉めが可能で便利な分、逆に防犯が弱くなってしまう。防犯重視となるとちょっと使いにくくても開け閉めできる場所は絞られているものの方がバックパックには適しているだろうという判断でこちらに決めた。

・ハンディライト
アフリカなどでサファリをする場合に必要になりそうなので、ハンディライトを購入。ハンディライトは手荷物ものと頭につけられるもの(ヘッドライト)があるのだけれど、両手を使えるようにしなければならないほどの場面には遭遇しないだろうとのことで手持ちのものを選択した。
その中でもGENTOSの閃はamazonなどで評価が高かったため、これを選択した。
俺ってけっこうミーハーなのかも。。

・データバックアップ用USBメモリ&デジカメ用SDカード(microSD)
ノートPCを持って行く予定だが、何かあった場合のバックアップとしてデータはバックアップを取って分散させておきたい。最近のUSBメモリは16GBや32GBのものがあって時代はずいぶんすすんでいるんだなと実感。去年買ったときは4GBくらいのUSBメモリですげーなーって感心していた気がする。


検討中のもの
・ノートPC(Netbook)
持ち運びを重視して考えると、候補に挙がるものがvaioのpくらいしか見当たらない。
そもそも今僕が使っているノートPCは6,7年前のものなのだけれど、重さは1kg程度。今販売しているNetbookと重さに対してさほど変化はない。変わったといえばディスク容量だろうか。
僕が今使用しているPCのハードディスクは20GB程度なので上で説明したUSBメモリ程度しかない。今はハードディスクはノートPCでも80GBとか、100GBはざらだ。
それなのに重さは全然変わっちゃいない。メーカーは1kgまでにすればいいと思っているのだろうか?個人的な感覚では1kgはまだまだ重いっす。

旅先で何か問題があった場合を考慮すると、購入してから6,7年経ったこの骨董品PCを持って行けば問題発生時の悲しみは少ないだろう。
特に南アフリカではノートPCが盗まれる事件がかなり頻繁に発生しているらしく、ノートPCを見せびらかしでもしようものならすぐに盗難に遭うだろうと考えられる。
けれど、すでに僕のノートPCはバッテリーがヤバいのでAC電源があるところでないと作業ができない。それでバッテリーだけを買おうとするとすでに製造中止だし、在庫があったとしても1万円以上する。
最新のNetbookを買ってもって行くのか、今のノートPCを持っていくのかまた余計な悩みが増えてしまった。

旅程

ようやく航空チケットを確定させたので旅程を確定させることができた。

旅程
9月~12月 シンガポールから北上し、東南アジアを回ってベトナムへ
12月 ベトナムでいちご栽培のお手伝い オーストラリアへ
12月~1月 オーストラリアに滞在 シンガポール経由で南アフリカへ
1月~3月 南アフリカから東アフリカ(ケニア、タンザニアetc)を経てエジプトへ
3月~4月 エジプトから中東(イスラエル、ヨルダン、シリアetc)を経てトルコへ

こんな感じでざっくりしたスケジュールは立てられた。最初に考えていたときは、もっと流動的に行き当たりばったりでいいかなって感じはあったけれど、実際は航空券の制限があったり、そう簡単にもいかなさそうだ。
それでも取得したチケットは、シンガポール、ケープタウン、イスタンブールしかないわけで、その間についての計画は変更可能だし、フレキシブルに対応できるようにしておきたい。